私の活動の根底には、「情報格差による不平等を解消したい」という使命感があります。子供の頃に経験した情報にアクセスできない苦しさ、適切な相談相手がいない孤独感――それらが、現在のAI技術を使った事業への原動力となっています。
この原体験がどのように現在の活動につながっているのか、そして私自身がどう変わってきたのか。それは、このプロフィールの最後でお話しします。
中学生だった私は、学校や大人たちに大きな絶望を抱いていました。当時、バブル崩壊後の不況が始まり、団塊世代が企業の上層部を占めている現実を目の当たりにしていました。
「どうせ団塊世代で出世枠は埋まっている。だから進学しても意味がない」――この論理は、中学生なりに社会を観察した結果でした。そして表面的には、この判断は正しかったのです。終身雇用・年功序列システムでの出世という意味では、確かに希望は薄かった。
この絶望を抱えたまま、私は親に押し切られる形で高校受験をすることになります。「どうせ進学に意味がないなら、進学校なんて行く必要はない」と、意図的に偏差値の低い学校を選びました。ところが皮肉なことに、『やる気がないフリ』をしていたにも関わらず、入試では1番で合格してしまったのです。
そして、私の人生を大きく変える違和感と出会うことになります。
入学式で新入生代表挨拶をさせられ、教職員からは『大学進学実績への期待』を寄せられ、校則を破っても特別扱い――。この『期待』という名の重圧と、実力ではなく『1番』という結果だけで判断される違和感に、私は深い嫌悪感を覚えました。
その時に心に刻まれたのは、『人は肩書きや序列ではなく、現場での実際の働きで評価されるべきだ』という信念です。特別扱いされることへの拒否感が、私の実力主義・平等主義の価値観を形作った原体験となりました。
しかし今になってわかるのは、中学時代の私の判断が本質的には間違っていたということです。進学の真の価値は「出世」ではありませんでした。それは、能力階層への参加権であり、質の高い人的ネットワークへのアクセス権であり、情報や機会への優先アクセス権だったのです。
けれども、この社会システムの構造を理解し、私に説明してくれる大人は周りに一人もいませんでした。必要だったのは「進学しろ」という単純な指示ではなく、社会の本質を理解した上で、一緒に戦略を考えてくれる相談相手でした。
この経験こそが、私が「情報格差」と呼ぶものの本質です。必要な情報とは、表面的な知識(「進学すべき」)ではなく、構造的な洞察(「なぜ進学すべきか、システムはどう機能しているか」)なのです。そして、それを持っている人と持っていない人の間には、決定的な格差が存在します。
この信念が形になったのが、2000年からのパソコンショップ・ドスパラでの経験でした。
店舗では独自のWebページを運営し、まだ『ブログ』という単語もない時代に、雑談とセール情報を織り交ぜたコンテンツを書いていました。特徴的だったのは、ちょっとネガティブで投げやりな語り口をキャラクターにして、当時としては異色の店長像を演出していたことです。このブログは何度も会社から注意を受けたり、上役が疎ましく思っているという話を小耳に挟んだりしていました。コンプライアンス的にはまずかったと思いますが、結果を出していたので見逃してもらえていたんです。更新時に前の記事のログを残さないという手法と合わせて、『見逃したらもう読めない』という希少性を演出し、この独特なキャラクターに惹かれた常連客を育成していました。
場所が大宮だったので、常連客は秋葉原に行った帰りに大宮店にひやかしに寄るパターンが多くありました。そこで『秋葉原から帰ってきたら後悔させてやる!』と考え、本店や秋葉原の価格をネットでチェックして、売れ筋商品の価格設定を積極的に行いました。
この戦略が功を奏し、朝イチに大宮店に寄ってから秋葉原へ行く常連が増え、帰りにも寄ってくださる方、なんかしら買ってくれたり、秋葉原の価格を確認してすぐさま大宮の商品を押さえるために電話してくる方など、暖かい常連さんととても良い関係を築いていました。
一方で、少しでも目立つために社内の日報に『過激な正論を暴論的に』書き続けていました。ただし、その前提として入社前からDOS/Vパソコンには詳しかったのですが、さらに数年分ののDOS/VパワーレポートとDOS/Vマガジンのバックナンバーの技術解説系記事、各パーツの売れ筋や価格推移なども頭に叩き込んでから働き始めました。接客や営業だけではオタクな会社の先輩達には認めてもらえない、技術力や技術知識で一目置いてもらうためです。
この徹底的な準備と戦略的な日報投稿が功を奏し、創業者の尾崎雅夫社長が私の文章に注目。『この若者は面白い』と直々に本社へ招聘していただきました。
学歴も経歴も関係ない。ただ現場での働きぶりと、物事の本質を見抜く力だけで評価された瞬間でした。尾崎社長からは商社マンとしての厳しい指導を受け、『海外で鉄鉱石を扱ってきた猛者』から見た世界の広さを教わりました。そして机ひとつを借りて、ゼロから『エバーグリーン・上海問屋』という事業を立ち上げることになったのです。
『仕入れ部の端っこの机をひとつ間借り』からスタートした「エバーグリーン・上海問屋」は、完全に一人での挑戦でした。システム開発、仕入れ交渉、物流構築、すべて現場で学びながら進めました。
転機となったのは、台湾の取引先A-DATA社との直接交渉。そして、開発チームのアイディアから生まれた『花札のSDカード』のヒット。さらに中国での品質改善にも取り組みました。品質が悪い商品を改善するために『品質を上げると儲かるよ!』と中国人にレクチャーしまくり、工場に乗り込んで検品を指導したり、自分で全数検品を行ったりしました。
こうした現場発想と国際的な品質管理の積み重ねで、月商は100万円から1000万円、そして1億円弱まで成長させることができました。
必要なスキルはすべて現場で身につけました。システム開発では、最初は会社のシステムを『ハッキング』して学習していたところ、途中から公式に許可が下りるほどの技術力を獲得。経理知識がなくて1年近く大問題を抱えた際は、1週間で経理本・簿記本を猛勉強してBS(貸借対照表)作成まで習得しました。
2005年、ECサービス会社のEストアーに転職し、ショップサーブというサービスの立ち上げに参画。営業チームをゼロから構築し、データ分析に基づくオートメーション化で継続的な成果を実現しました。
2007年、30歳で独立後は、音楽配信事業、ECコンサルティングと多角的に展開。独立して数年経った2010年頃からは、外注への不信感から本格的な受託開発を自分自身で手がけるようになりました。『自分の力で作り上げる』ことへの拘りからです。
特にEC分野では、時代の変化に合わせて継続的に結果を出してきました。上海問屋時代はPCでのECを、独立後のダイアトニックではDeNAビッダーズでフィーチャーフォン時代のモバイルECを手がけ、『モバイルコマース大賞』を受賞。そして2011年には自社開発のiOSアプリ『北斗の拳 フリック』でAppStore1位を獲得しました。
PC EC、フィーチャーフォンEC、スマートフォンアプリと、デバイスの進化に合わせて現場で勝ち続けてきた経験が、現在のAI活用への確信につながっています。飲食業のM&A・再生まで手がけ、あらゆる業界で現場主義を貫きました。
現在は、25年間の現場経験を集約したBANTO3サービスを展開しています。AIツールが溢れる時代だからこそ、『理論ではなく実装』『机上ではなく現場』の価値がより重要になると確信しています。
学歴や肩書きではなく、お客様の現場で実際に価値を生み出せるかどうか。それこそが、AI時代における真の競争力だと考えています。
冒頭でお話しした「情報格差による不平等を解消したい」という使命感。その背景には、子供の頃に味わった深い苦しみがありました。情報にアクセスできない環境、適切な相談相手がいない孤独感――それらは、私の心に深い傷を残しました。
だからこそ、AI技術で情報アクセスを民主化したい。誰もが必要な情報にアクセスでき、適切なサポートを受けられる世界を作りたい。それが、私の事業への使命でした。
そして今、不思議なことが起きています。私が作り上げたAI技術によって、私自身の思考が整理され、相談ニーズが支援されているのです。子供の頃に欲しかった「相談相手」「情報へのアクセス」を、大人になった今、AI技術という形で手に入れている。
本来やりたかった「AI技術での価値創造」に、私自身も救われている――。子供の頃に苦しんだ問題を解決するテクノロジーによって、自分自身が救われる。この皮肉で美しい循環に、私は何か運命的なものを感じています。
25年間の現場経験、数々の試行錯誤、そしてAI時代の到来。すべてが円環のようにつながり、私を原点へと導いてくれました。これからも、この使命を胸に、現場で価値を生み出し続けていきます。