2026年7月25日/株式会社東京ネット工務店 海老沢敦
① 事実
Vol.05で、政府命令でAIが三週間止まった話を書きました。その続きが起きています。
今度は、止めるのではありません。出す前に、国が見るようになりました。
2026年6月2日、米国大統領が大統領令(政府のトップが署名する命令)を出しました。内容はこうです。最先端のAIを開発する企業は、新しいモデルを広く公開する前に、最大30日間、政府が先に触れられるようにしてほしい。
これは義務ではありません。
命令文は、この枠組みを<strong>「任意(voluntary)」と明記</strong>し、<strong>許認可制でも事前承認制でもない</strong>とわざわざ断っています。出してはいけない、とはどこにも書いていない。
それでも、効果はすぐに出ました。
OpenAIの新モデル「GPT-5.6 Sol」は、誰でも使える形での公開を、いったん見送られました。 理由は、サイバー攻撃に使える能力が高すぎること。渡された先は、米国政府が一社ずつ承認した約20社だけです。OpenAIは、渡す相手の名前を先に政府へ提出しています。性能が高いから広く売る、ではなく、性能が高いから広くは売れない、という判断です。
ただし、その状態は13日で終わりました。
6月26日に限定公開。7月9日には、ChatGPT・API・開発ツールのすべてで、誰でも使える状態に切り替わっています。 線は引かれ、そして外れました。
外れたのは、線のほうだけです。
「新しいモデルを広く出す前に、渡す相手の名前を政府に提出して承認を取る」——この手続きは、一度、実際に成立しました。 二週間しか続かなかったとしても、やり方の前例としては残ります。 次に同じことが起きたとき、ゼロから議論する必要はもうありません。
一方、Googleの「Gemini 3.5 Pro」は、規制上の障害がない側に立ちました。攻撃的なサイバーセキュリティ能力(他のシステムを攻撃する力を測るテスト)のスコアが、当局の目を引く線を下回っていたからです。線を越えなかったので、審査の対象にならなかった。
ただし、このモデルもまだ出ていません。
当初は6月の予定でした。次に7月、さらに7月17日と目標が示され、そのすべてを過ぎています。 7月21日にGoogleは新しいモデルを三つ公開しましたが、その中に3.5 Proはありませんでした。
遅れの理由も報じられています。規制ではありません。 自社の品質基準に届かなかった——事実と違うことを言ってしまう頻度と、実務での安定性です。開発チームは土台から作り直したと伝えられています。
規制で止められてはいない。それでも、出てこない。
この数ヶ月に起きたことを並べると、こうなります。
- 線を越えたモデルは、13日間、誰でも使える形では出せなかった
- 線を越えなかったモデルは、1ヶ月半たっても、まだ出ていない
- そして、義務は一つも課されていない
並べると、順番が逆に見えます。 国に止められたモデルのほうが先に出て、止められていないモデルが出てこない。
つまり、この業界に生まれたのは「出せなくなる性能」ではありませんでした。出す前に、一段、誰かの目を通す工程です。強制されたからではありません。
これまで、AI開発の目標はひとつでした。より賢く。 ベンチマーク(各社のモデルの賢さを比べるための共通テスト)の点数を1点でも上げる。それが競争のすべてでした。いま、その上に別の条件が乗りました。出す前に、外の誰かの目を通っていること。
出典:
- 大統領令の解説(WilmerHale) https://www.wilmerhale.com/en/insights/client-alerts/20260602-new-executive-order-addressing-early-government-access-to-frontier-ai-models
- 同(Skadden) https://www.skadden.com/insights/publications/2026/06/new-ai-executive-order
- 【2026-07-30 追加】GPT-5.6 Solの限定公開(6月26日/米政府が個別承認した約20社・OpenAIは渡す相手の名前を事前に政府へ提出) https://www.infosecurity-magazine.com/news/openai-gpt-5-6-sol-limited-preview/ / https://thehackernews.com/2026/06/openai-limits-gpt-56-rollout-as-sol.html / https://openai.com/index/previewing-gpt-5-6-sol/
- 【2026-07-30 追加・重要】GPT-5.6ファミリーのGA(7月9日/ChatGPT・Codex・APIの全面。限定公開から13日) https://openai.com/index/gpt-5-6/ / https://medium.com/@ai_93276/gpt-5-6-took-thirteen-days-to-move-from-restricted-preview-to-general-availability-45aa86ada96f (※後者は二次。openai.com/index/gpt-5-6/ は自動取得が403のため、配信前に手で開いてGA日を確認する)
- Gemini 3.5 Proの規制上の位置づけ(TechTimes) https://www.techtimes.com/articles/319318/20260629/gemini-35-pro-cleared-for-july-launch-fable-5-nears-return-gpt-56-stays-locked.htm
- 7月21日のGeminiリリース(TechCrunch) https://techcrunch.com/2026/07/21/google-releases-three-new-gemini-models-but-no-3-5-pro/
- 【2026-07-30 追加】Gemini 3.5 Proの三度目の延期と理由(7月17日目標も経過/Bloomberg報道=自社の内部品質目標に届かず、事実誤りの頻度と実務での信頼性が理由。ベースモデルを作り直したと報じられている) https://www.techtimes.com/articles/320308/20260713/gemini-35-pro-targets-july-17-after-full-rebuild-every-spec-remains-unconfirmed.htm / https://finance.biggo.com/news/6f0c6bb2-795f-4c57-9d09-6db691d7638a
② 構造 — 線が引かれると、製品はその線に張り付く
この構造を、日本の経営者はもう知っています。軽自動車です。
排気量660cc、長さ3.4メートル、幅1.48メートル。この規格に収まっていれば、税金も保険も車検も安い。だから国内メーカーは、660ccを超えないように設計します。 技術的に700ccが作れないのではありません。作れるが、作らない。超えた瞬間に、別の枠の商品になってしまうからです。
結果として何が起きたか。軽自動車は、660ccという線の、すぐ手前に全社が張り付いたまま、何十年も競争しています。競争が消えたのではありません。競争の場所が、「排気量をどこまで上げるか」から「660ccの中でどこまで良くするか」に移ったのです。
同じことが、あちこちで起きています。
- 消費税の免税ライン(年商1,000万円)——その手前で売上を止める事業者が現実にいます
- 社会保険の壁(106万円・130万円)——その手前で働く時間を止めるパート従業員がいます
- 建ぺい率・容積率——ぎりぎりまで建てて、そこで止める
規制の線は、製品や行動を、その線の内側の縁に集めます。 例外がありません。線を引くという行為は、「そこまではやってよい」と同時に「そこまではやりなさい」という指示になるからです。
このうち社会保険の壁には、いま続きが起きています。「106万円」という線は、2026年10月に無くなります。 2025年に成立した年金制度の改正で、賃金による判定をやめることが決まりました。
線は消えません。判定は「週20時間以上働いているか」に移ります。
測るものが、年収から労働時間に変わっただけです。線が無くなったのではなく、別の物差しの上に引き直された。 そして、その手前で止める人はこれからも出ます。今度は年収ではなく、シフトの時間で。
覚えておいてください。この号の後半で、同じことがAIについて起きます。
歴史循環で見ると、AIは今その入口に立っています。1990年代、米国は暗号技術(通信を第三者に読まれないようにする技術)を輸出規制したとき、<strong>「鍵の長さ40ビットまでなら輸出してよい」</strong>という線を引きました。何が起きたか。海外向けのソフトウェアが、揃って40ビットで作られました。技術者は128ビットが作れたのに、<strong>輸出できる製品は40ビットだった。</strong> 線が、製品の性能を決めたのです。
新しい技術が国力の源泉になると、国家は線を引く。線が引かれると、産業はその線の手前に集まる。 Vol.05では、統制がハード(半導体)からソフト(モデル)へレイヤーを上げた話を書きました。今回はその先です。統制は、性能の上限そのものを決める段階に入りました。
ただし、ここまでの類推には、ひとつ決定的に違うところがあります。
660ccは、測れます。 誰が測っても660ccで、争いようがない。車検証に書いてあります。暗号の40ビットもそうです。鍵の長さは数えられる。売上1,000万円も、建ぺい率も同じ。これまで国家が引いてきた線は、ほぼ例外なく物理量でした。
AIの線は、そうではありません。
今回、Gemini 3.5 Proが下回ったとされるのは「攻撃的サイバーセキュリティ能力のスコア」です。では、それは何で測ったのか。
実際に報じられている数字を並べてみます。GPT-5.6 Solが96.7%、Gemini 3.1 Proが70.7%。 18ポイント以上の差があります。——こう書くと、はっきりした線があるように見えます。
ところが、この二つは別々のテストの点数です。
96.7%は、OpenAIが自社の中で行った評価の数字。70.7%は「Terminal-Bench」という別のテストの数字。しかも後者は、比較したいはずの3.5 Proではなく、ひとつ前の世代である3.1 Proのものです。
違う物差しで測った、違うモデルの点数を並べて、18ポイントの差だと言っている。
そして、正式な測り方は、まだ存在しません。
大統領令は、財務省・国家安全保障局・国立標準技術研究所などに対して、機密扱いのベンチマークを作るよう求めています。期限は2026年8月1日。
順番を確かめてください。線を引いてから、測り方を作っているのです。 しかも出来上がる物差しは機密なので、企業も、私たちも、それが何を測っているのかを見ることができません。
カタログ燃費を思い出してください。あれは嘘ではありません。決められた測定モードで、決められたとおりに測った、正しい数字です。それでも実際の燃費とは合わなかった。理由は単純で、測り方が決まると、その測り方に向けて最適化が起きるからです。誰も不正をしていなくても、そうなります。試験のやり方が公表されている以上、そこで良い点が出る作り方が選ばれる。
つまり、AIをめぐる線は二重になっています。
- 表の線=スコアの閾値。「ここを超えたら審査対象」
- 裏の線=そのスコアを、何で、誰が測るか
そして実際に効いているのは、裏のほうです。測り方を決める人が、実質的に線を引いています。 表の数字をいくら厳しくしても、測るテストが実態から外れていれば、線は動いていません。逆に、テストの中身がひとつ変われば、昨日まで出荷できたモデルが今日は出せなくなる。
戦略の階層で読むと、変化はもっとはっきりします。
これまでAI企業の意思決定は、技術の階層にありました。どうすればもっと賢くできるか。いま、その上に統治の階層——誰が出荷を許されるか——が乗りました。そして統治の階層が乗ったことで、技術の階層の意思決定そのものが変わりはじめています。「どこまで上げるか」ではなく「どこで止めるか」を考える会社が出てきています。
上の階層ができると、下の階層の最適化の向きが変わる。
そして、いま見たとおり、統治の階層のさらに上に、もう一段あります。何をもって危険とするかを定義する階層——測り方を決める場所です。ここが決まらないうちに線だけが引かれた、というのが2026年6月に起きたことでした。線は引かれた。だが、その線が何を測っているのかは、まだ誰も確かめられない。
規制が甘いとか厳しいとかいう話ではありません。測り方が決まっていない段階で線が引かれると、線は建前として機能する、という構造の話です。そして建前であっても、産業はその手前に張り付きます。現に張り付いたから、Gemini 3.5 Proは審査の対象にならずに済みました(出荷が止まっているのは、まったく別の理由です)。
ここで、①の13日——限定公開から、誰でも使える状態になるまでの13日——の意味が分かります。
線が13日で外れたのは、規制が緩んだからではありません。測り方が決まっていない線は、長く保てないからです。 何を測るのか誰も言えないものを、根拠に出荷を止め続けることはできない。建前は、建前として長持ちしません。
では、何が残ったのか。「出す前に、渡す相手の名前を政府に出して承認を取る」という手続きです。
閾値のほうは消えました。手続きのほうは、一度成立した以上、次に持ち出すときには「前にもやった」から始まります。 測り方が決まったとき——大統領令が8月1日を期限に、機密扱いの物差しを作らせています——その物差しを載せる台は、もう組み終わっているのです。
線は消えて、器が残りました。 覚えておいてください。制度で先に固まるのは、数字ではなく手続きのほうです。
そして、ここからが経営者にとっての本題です。削られているのは、国のところだけではありません。
②の出典:
- 軽自動車の規格(全長3.4m・全幅1.48m・全高2.0m・排気量660cc以下/道路運送車両法施行規則。現行規格は1998年から) https://car-me.jp/articles/11809 (※二次。一次は同施行規則)
- 消費税の納税義務の免除(基準期間の課税売上高1,000万円以下/国税庁 タックスアンサー No.6501) https://www.nta.go.jp/taxes/shiraberu/taxanswer/shohi/6501.htm
- 社会保険の適用拡大と「106万円の壁」の撤廃(2025年成立の年金制度改正法により2026年10月から賃金要件を廃止、判定は週20時間以上へ) https://taxlabor.com/106-man-yen-wall-abolished/ / https://houmu-pro.com/legalrevision/384/ (※いずれも二次。配信前に厚生労働省の資料で一次を当てる)
- 米国の暗号輸出規制と40ビット制限(1992年のNSA・商務省・RSA Data Securityの合意により、鍵長40ビット以下の製品は輸出承認が簡略化された) https://privacyink.org/pdf/export_control.pdf
③ 経営者の自分事
正直に、データの無い話から書きます。以下は私の肌感で、数字の裏付けはありません。
私は自社で、AIのAPI(他のソフトから直接AIを呼び出す窓口。ChatGPTやClaudeのアプリのような画面を経由せず、自社のプログラムから中身に直接つなぐ形)を使ったチャットを作っています。作りながら、ずっと感じていることがあります。
同じ会社の、同じAIのはずなのに、消費者向けのアプリから使ったときと、APIから直接使ったときで、返ってくるものが違う。 そしてその差が、月を追って開いているように感じます。
理由の見当はついています。消費者向けのアプリには、AI本体の手前に、いわば接客マニュアルが挟まっているからです。誰でも使う場所なので、危ないことを言わないよう、行儀よく振る舞うよう、質問を渡す前に決まりごとが何枚も重ねられている。これは公知の構造で、隠されているわけでもありません。どの会社の製品も、程度の差はあれそうなっています。
念のため書いておきますが、これは「大手のアプリは劣化している」という話ではありません。誰でも安心して使える形にするには、そうするしかない。
①②と並べると、こう見えます。
AIは、あなたの手元に届くまでに、二度削られている。
- 一度目は国が削る。出荷審査、渡す相手の承認、性能の閾値。止まるか、遅れるか、限られた相手にだけ先に渡る——Vol.05では、実際に三週間止まりました
- 二度目は製品が削る。安全のための層、行儀のための指示。届きやすい形にするために、角が落ちる
そして厄介なのは、二度目の削りは、削られていることが見えないことです。エラーは出ません。ちゃんと動きます。返事も返ってきます。Vol.07で「気づけない不良」という言葉を使いましたが、同じ形です。変わっているのに、変わったと分かる手がかりが無い。
もう一つ、最近あったことを書きます。
7月24日、Anthropicが新しい上位モデル「Opus 5」を出しました。驚くほど静かです。 少し前、同社の「Fable 5」が出たときの騒がれ方とは比べものになりません。
しかも、値段はFable 5のちょうど半額でした。入力も出力も半分。自社の最上位モデルに、その下のモデルがほぼ並んだということです。他社に追われて下げたのではありません。自分の一番高い商品を、自分で追い越しています。
そして私自身、前の世代との性能差を、体感できていません。 賢さの違いが分からない。それでも私は実務でこちらを使います。理由は賢さではありません。一度に読ませられる文章の量が、けた違いに多いことです。100万トークン(AIが文章を数える単位。日本語ならおおむね1文字が1〜2トークン。単行本にして数冊分にあたります)——つまり、長い資料や長い作業履歴を、途中で切らずに丸ごと持たせられるからです。
②で、規制の線が実態を測れていないかもしれない、と書きました。同じことが、もっと手前で起きています。 私たちが日々「どのAIが優秀か」を判断するのに使っている物差しも、同じ疑いの中にあります。
Vol.07で「AIには、まだ物差しが無い」と書きました。半分訂正します。物差しはあります。ただ、測るべきものを測っていない。
いま世の中で流通している物差しは、ベンチマークの点数です。ところが最新の順位表を見ると、首位争いは0.1ポイント差(94.4%対94.3%)まで詰まっています。一方、二世代前のモデルとの差は約28ポイント開いている。同じ世代の中では、もう差が体感の下に沈んでいる。 その0.1ポイントが記事になり、話題になる。
私の実務で効いたのは、その0.1ポイントではありませんでした。文脈を途中で切らなくていい、という作業条件のほうです。 点数表には出てこない項目です。
業界で語られている指標と、自社の数字を実際に動かす変数は、たいてい別のものです。 これはAIに限りません。同業の集まりで話題になる指標、業界紙が並べる順位、展示会で各社が競っている数字——それらが自社の粗利をどれだけ動かしたか、思い返してみてほしいのです。動かしていたのはもっと地味な、話題にならない条件のほうではなかったか。
だから、問いを一段ずらします。「どのAIが一番賢いか」ではありません。それは点数表を読む話=借り物の物差しです。そうではなく、
「自分が触っているのは、どの段階のものか」。
削られる前か、後か。手軽に使える形で受け取っているのか、素に近い形で受け取っているのか。そして——その違いを見られる人が、社内にいるか。
Vol.05で、当社がAIをAnthropicに、サーバーをGoogleに預けていると書きました。今回も同じ場所から書いています。上の階層で何が決まるかは、こちらでは決められません。 決められるのは、届いたものが何なのかを分かった上で使っているか、それだけです。
便利な形ほど、薄い。 これはAIに限りません。すぐ使える既製品ほど、自社の事情に合った部分は最初から削られています。思い当たる買い物が、いくつかあるはずです。
——明日、こう話してみてください。「AIってさ、危なすぎるってことで国が一回止めたんだけど、13日で解けたらしいよ。でも『政府に渡す相手の名前を出して承認を取る』っていうやり方だけは残ったって。あと、同じAIでもアプリから使うのと直接つなぐのとで中身が違うらしい。うちが使ってるのは、どっちなんだろうな」
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今号の話:〈第三部64「私の、シマ」〉
自分の担当する範囲を、誰にも触らせたくない人がいます。悪意ではありません。その範囲に、仕事が入ってきます。
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