2026年8月10日/株式会社東京ネット工務店 海老沢敦
① 事実
2026年1月から、企業向けの保険に、こういう特約が付けられるようになりました。
生成AIに起因する、または生成AIに帰属する、身体傷害・物的損害・人格権や広告に関する侵害は、補償しない。
米国の話です。 作ったのはISO(Insurance Services Office)——企業向け保険の標準的な条文を作っている業界団体です。
特約は3種類あります。
- CG 40 47 01 26 ——いちばん広い除外。 身体傷害・物的損害・人格権や広告に関する侵害の、全部
- CG 40 48 01 26 —— 人格権や広告に関する侵害だけを除外(狭いほう)
- CG 35 08 01 26 —— 納品した製品や、引き渡し済みの仕事が原因で、あとから事故が起きたときの責任を除外
2026年1月1日以降の更新から、保険会社がこれを付けられるようになりました。
3つとも、付けるかどうかは保険会社の任意です。 ただし、採用は加速しています。
これまでは、どうだったのか
保険の世界では、この状態を<strong>「Silent AI(サイレントAI)=沈黙しているAI」</strong>と呼んでいます。
保険証券のどこにもAIとは書かれていない。だが、AIが絡む事故が起きたとき、既存の補償で払われていた(かもしれない)——そういう状態を指します。
法律事務所の解説では、こう説明されています。
AIリスクを、AIに明示的に言及することなく、既存のサイバー保険や技術者賠償責任保険で暗黙的にカバーしていた実務
タグ=契約, 制度
書いていないから、払われるかどうか分からない。
その曖昧さが、除外の方向で片付けられようとしています。
補償が、ばらばらになっていく
もう一つ、指摘されていることがあります。
AIの事故は、一つの保険では受けきれません。
同じAIが起こした一つの出来事でも、訴える側がどう主張を組み立てるかで、当たる保険が変わります。
解説にある例です。
AIを使った採用ツールによる差別の申立ては、雇用慣行に関する請求として扱われる可能性が高く、雇用慣行賠償責任保険の範囲に入る——あるいは、完全に除外される。
- サイバー保険(情報が漏れたり、システムが止まったりしたとき)
- 技術者賠償責任保険(作ったものの不具合で、相手に損害が出たとき)
- 役員賠償責任保険(経営の判断そのものが問われたとき)
- 雇用慣行賠償責任保険(採用や労務のことで訴えられたとき)
それぞれの保険会社が、それぞれ独自に、AIの補償を狭めています。
その結果、こうなります。
除外条項が積み重なって、どの保険も応答しない。
どこかが払ってくれるだろう、が成り立たなくなります。
正直に、二つ書いておきます
一つ。実際に支払いを断られた事例も、裁判も、まだ確認されていません。
いま出ているのは、これから起きることへの備えの話です。「もう払われなかった人がいる」という段階ではありません。
二つ。「生成AI」が何を指すのか、条文の定義が公開されていません。
様式そのものは有料で、業界の解説記事にも、定義の文言は出てきません。
何が除外されるのかが分からないまま、除外条項が付き始めている、という状態です。これは②で、いちばん重い問題になります。
日本では
探しましたが、同じ動きは見つかりませんでした。
出てくるのは、保険会社がAIをどう使うか(照会対応や支払業務の効率化)という記事ばかりです。保険会社が、AIの事故をどう扱うかの話は、まだ表に出ていません。
まだ来ていないのか、報じられていないだけなのかは、分かりません。 ただ、保険の約款は、輸入されます。
保険ブローカーが、顧客に勧めていること
大手の保険仲介会社が、企業向けに4つ挙げています。
- 自社のどこでAIが動いているか、洗い出す
- 人が確認する工程を含む、社内の統治を作る
- 自社の保険に、この特約が入っているか確認する
- 発注者との契約で、補償の前提を見直す。下請けとの契約の文言も調整を検討する
出典:
- 【一次に近い・2026-08-10 確認済】Fenwick「The End of 'Silent AI'? Emerging AI Exclusions, Coverage Fragmentation, and Practical Implications for Policyholders」(2026年6月15日)
- Silent AI の定義=「implicitly covering AI risks through existing cyber and technology errors and omissions (Tech E&O) policies without express reference to AI」。
- Silent Cyber の前例=「this transition mirrors the evolution of cyber risk, which was initially treated as 'silent cyber' exposure under traditional policies before insurers introduced exclusions, affirmative cyber endorsements, and standalone cyber products」。
- 2026年1月、ISOがCGLに生成AI除外条項を導入。 除外の対象=「bodily injury, property damage, and personal or advertising injury arising out of, or attributable to, generative AI」。
- D&O・EPLI・受託者賠償責任で「absolute(絶対的)AI除外」を導入した保険会社がある(⚠️ 社名は挙げられていない)。
- 断片化の具体例=「A claim alleging discrimination arising from an AI-driven hiring tool is more likely to be treated as an employment practices claim and fall within EPLI (or be excluded entirely).」/除外が "stack"(積み重なり)、どれも応答しない状態が生じる。
- ⚠️ 実際に否認された請求も訴訟も、この記事には無い(「emerging market trends and hypothetical scenarios」)。本文でも正直に書いた。
- https://www.fenwick.com/insights/publications/end-silent-ai-emerging-ai-exclusions-coverage-fragmentation-and-practical-implications
- 【一次に近い・2026-08-10 確認済】Gallagher(大手保険ブローカー)「ISO Introduces Generative AI Exclusion in Commercial General Liability Policies」
- 様式の正式名=「CG 40 47 01 26 — Generative Artificial Intelligence Exclusion」。
- 顧客への助言4点=①AIツールがどこで動いているか特定 ②人による確認を含む社内統治の確立 ③自社のCGLにこの特約が入っているか確認 ④発注者との契約で補償の前提を見直し、下請け契約の文言も調整を検討。
- 建設業が主な焦点(公共事業・複数フェーズの大規模案件で保険要件が厳しいため)。
- ⚠️ 「生成AI」の定義文言は、この解説にも無い。
- https://www.ajg.com/news-and-insights/iso-introduces-generative-ai-exclusion-in-commercial-general-liability-policies/
- 【二次・様式番号の裏取り】 CG 40 47 01 26(Coverage A+B の全面除外)/CG 40 48 01 26(Coverage B のみ)/CG 35 08 01 26(生産物・完成作業責任)。2026年1月1日以降のCGL更新から付帯可能、いずれも任意。 提供元は Verisk(ISOの親会社)。
- ⚠️ ISOの様式そのものは有料で未取得。 番号と対象範囲は複数の解説で一致しているが、条文の文言は当たれていない。 特に「生成AI」の定義は未確認。本文でもその旨を明記した。
- 【一次・2026-08-10 確認済/②の歴史循環】Silent Cyber の前例=NotPetya(2017)
- Mondelez International が Zurich American に約1億ドルを請求。 Zurich は証券の「戦争除外条項」を発動して拒否(NotPetyaの攻撃主体がロシア関連とされたため)。
- 数年の係争の末、2022年に和解。 ⚠️ 「the settlement ... ends the trial and without a publicly available decision to ponder or any precedent-setting legal clarity on the issue」=判決が出ず、判例が残らなかった。
- Merck & Co. は同種の争いで約14億ドル。2022年1月に勝訴(戦争・敵対行為の除外は適用されないと裁判所が判断)。
- ⭐ そして、この一連の裁判が保険会社を動かした=「The attack against Mondelez triggered action by insurers to eliminate silent cyber coverage within traditional insurance policies.」国家によるサイバー攻撃を明示的に除外する方向へ。
- 【2026-08-10 追加確認/②を厚くした素材】
- NotPetya の規模=米政府が2018年に「史上最も破壊的で最も高くついたサイバー攻撃」と呼んだ。 ウクライナの標的から始まり65カ国へ。帰属=ロシア軍情報部の Sandworm とされる。
- 被害企業=マースク(海運)/メルク(製薬)/フェデックス(宅配)/モンデリーズ(菓子)。 ⚠️ どこもIT企業ではない。本文でもそこを強調した。
- モンデリーズ=サーバー1,700台・ノートPC 24,000台が使用不能、損害1億ドル超(停止時間・逸失利益・復旧費用)。メルク=14億ドル(生産停止・機器費用・復旧のためのIT人材採用を含む)。
- ⭐⭐ 戦争除外条項の文言=「hostile or warlike action in time of peace or war, including action in hindering, combating or defending against an actual, impending or expected attack by any government or sovereign power」。⚠️ これはサイバー攻撃を想定して書かれた条項ではない。戦争で工場が焼けたときのための古い条項。 本文の対比(サイバー=古い条項で戦った/AI=新しい条項を先に作った)の根拠。
- Lloyd's Market Association の考え方=国家によるサイバー作戦でも、実際の紛争地域の外で起きた場合や、その企業が意図された標的でなかった場合は、除外を適用しない(一定の条件下)。→ 本文の「範囲は、事故が起きてから細かくなる」の根拠。
- 2022年半ば、ロイズが独立サイバー保険に国家支援攻撃の除外を要件化。
- ⚠️ Merck の決着は、資料によって「2022年1月に勝訴」と「和解」の両方の記述がある。 本文では「2022年1月に勝訴(裁判所が戦争除外は適用されないと判断)」までにとどめ、その後の経緯には触れない。
- https://www.brookings.edu/articles/how-the-notpetya-attack-is-reshaping-cyber-insurance/
- https://www.infosecurity-magazine.com/news/notpetya-settlement-may-increase/ / https://www.csoonline.com/article/574013/mondelez-and-zurich-s-notpetya-cyber-attack-insurance-settlement-leaves-behind-no-legal-precedent.html
- ⚠️ 日本の状況は、検索では確認できなかった。 出てくるのは国内保険会社のAI活用(照会対応・支払業務の効率化)ばかり。「見つからなかった」ことを本文でもそのまま書いた。
② 構造 — 保険会社は、二度目は待たなかった
これは、初めて起きたことではありません。
サイバー保険で、まったく同じことが起きています。順番まで同じです。
前回:サイバーのとき
2017年、NotPetyaという攻撃が世界中の企業を止めました。
ウクライナの標的から始まり、65カ国に広がりました。 米政府は2018年に、これを史上最も破壊的で、最も高くついたサイバー攻撃と呼んでいます。
止まったのは、IT企業ではありません。
- 海運大手のマースク
- 製薬大手のメルク
- 宅配のフェデックス
- そして、オレオを作っているモンデリーズ
モンデリーズでは、サーバー1,700台とノートパソコン24,000台が使えなくなりました。 損害は、停止していた時間と、失った利益と、復旧の費用を合わせて1億ドル超。
メルクの被害は、14億ドルです。 生産が止まった分、機器の費用、復旧のために新しく雇ったIT人材の費用まで含めた額です。
どこも、AIやITを売っている会社ではありません。 お菓子と、薬と、船と、宅配です。
モンデリーズは、保険会社に請求しました。
保険会社は、払いませんでした。
理由は「戦争」です。
証券には昔から、こういう条項が入っていました。
平時・戦時を問わず、敵対的または戦争に類する行為による損失・損害。政府または主権国家による、実際の・切迫した・予期される攻撃を、妨害し、迎撃し、あるいは防御する行為を含む。
この条項は、サイバー攻撃を想定して書かれたものではありません。
戦争で工場が焼けたときのための、古い条項です。
NotPetyaの攻撃主体がロシアの軍に関係するとされたため、保険会社は、この古い条項を持ち出しました。
サイバー攻撃は、戦争なのか。
数年、争われました。 そして2022年、和解しました。
判決は出ませんでした。
和解で終わったので、公開された判断が残っていません。 つまり——次に同じことが起きた会社が、参考にできる答えが、無いということです。
別の会社(メルク)は、同じ論点で約14億ドルを争い、2022年1月に勝ちました。 裁判所は「戦争・敵対行為の除外は当てはまらない」と判断しています。
そして、この一連の裁判が、保険業界を動かしました。
モンデリーズへの攻撃が、保険会社を動かした。従来の保険から「沈黙しているサイバー」を無くす方向へ。
曖昧なままにしておくと、裁判になる。裁判になると、負けることもある。
だから、明示的に書くようになりました。
2022年半ば、ロイズ(世界最大級の保険市場です)が、独立したサイバー保険には、国家が支援する攻撃の除外を必ず入れるように、と要件化しました。
そして、範囲を細かく決め始めました。
たとえば、同じ国家の攻撃でも、紛争が実際に起きている地域の外で起きた場合や、その企業が狙われた相手ではなかった場合は、除外を当てない、という考え方が示されています。
範囲は、事故が起きてから、細かくなる。
事故が起きるまで、誰も細かく決めません。決める必要が無いからです。
対比が、いちばんはっきりするところ
サイバーとAIの違いを、一つだけ挙げるとすれば、ここだと思います。
サイバーのとき、保険会社は「古い条項」で戦おうとしました。
戦争除外は、工場が焼けたときのために書かれた文章です。それをサイバー攻撃に当てました。そして、争いになりました。
AIでは、そうしていません。
新しい条項を、先に作りました。
既存の文章で戦うのをやめて、最初から書くことにした。
これは、前回の授業料だと思います。
今回:AIのとき
順番が、違います。
サイバーのときは、こうでした。
- 書いていない(沈黙)
- 大きな事故が起きる
- 払う・払わないで裁判になる
- 保険会社が明示的に除外し始める
AIでは、こうなっています。
- 書いていない(沈黙)
- ——
- ——
- 保険会社が明示的に除外し始める
事故と裁判が、飛ばされています。
①に書いたとおり、実際に支払いを断られた事例も、裁判も、まだ確認されていません。
保険会社は、二度目は待たなかった。
前回で、待つと高くつくことを学んだからだと思います。
なぜ、保険が先に動くのか
規制の議論は、まだ続いています。 本紙のVol.08で、制度は「どこまでなら安全か」ではなく「誰が試験するか・何を届け出るか」という手続きから先に固まる、と書きました。それは、いまも決着していません。
保険は、先に動きました。
理由は単純だと思います。
保険会社は、自分の金を賭けているからです。
規制は、議論している間、誰も損をしません。保険は、書き方を間違えると、その分を自分で払うことになります。
だから、分からないものは引き受けない。
「除外する」というのは、「危ない」という意味ではありません。
「値段が付けられない」という意味です。
保険は、危険なものでも引き受けます。確率が読めるなら。火事も、事故も、病気も、値段が付いています。
値段が付かないのは、確率が読めないときです。
AIの事故は、いま、そこにいます。
いちばん重い問題——「AIに起因する」とは、どこまでか
①で書いたとおり、条文の定義が公開されていません。
そして、これは言葉の綾ではありません。実務で必ず問題になります。
たとえば、こういう事故を考えてみてください。
AIが、送り先のリストを作りました。 完璧に作りました。一件も間違えていません。
それを受け取った担当者が、表計算ソフトに貼り付けて、見やすいように名前の列だけを並べ替えました。
名前だけが動いて、宛先と本文は元の順のままになりました。
そして、送信されました。
他人の名前と、他人の注文履歴が載った案内が、別の人に届きます。
これは、「生成AIに起因する」事故でしょうか。
AIは、何も間違えていません。
ですが、AIが出した形式のものを人が触ったから起きました。 AIが無ければ、この形の作業も、この形のミスも、ありませんでした。
「起因する」は、どこまで伸びるのか。
保険会社は広く読みたい。加入者は狭く読みたい。
そして、それを決めるのは——裁判所です。
つまり、サイバーのときと同じ場所に、また戻ります。
そして、リスクは消えません
保険が引き受けなくなったからといって、リスクが無くなるわけではありません。
誰かが負っています。
①で挙げた、保険仲介会社の助言の4番目を、もう一度読んでみてください。
発注者との契約で、補償の前提を見直す。下請けとの契約の文言も調整を検討する。
これは、こういう意味です。
保険で移せなくなった分を、契約で下へ移す。
大企業は、保険でリスクを外に出していました。 出せなくなりました。では、どこへ出すか。
保険が引き受けなくなったリスクは、消えません。契約を通って、下へ流れます。
そして、いちばん下には、保険に入っていない会社がいます。
——ただし、話はそこで終わりません
いちばん下は、受け止められません。
保険に入っていない会社に、大きな賠償を負う力はありません。だから、契約で自分の責任を限定します。 「ここまでしか負いません」と書きます。
そして、それは通ります。
小さいところに頼む側も、相手にそれだけの体力が無いことは、分かっているからです。無いものは、取れません。
つまり、こうなります。
リスクは下へ流れる。だが、いちばん下では受け止められない。
だから、跳ね返って、発注した側に戻る。
そして、戻ってきていることに、たいてい気づいていません。
「外に出した」と思っているからです。
②の芯を、一行にします。
保険が降りるのは、危ないからではなく、値段が付けられないから。
そして、降りた分は消えず、契約を通って下へ流れる。
③ 経営者の自分事 — 私は、契約の文言を書く側にいません
②で、リスクは契約を通って下へ流れる、と書きました。
当社は、流れてくる側にいます。
ここで、正直に書いておきたいことがあります。
契約書は、たいてい、相手から出てきます。
こちらから直しをお願いすることはできますし、実際にお願いもします。ですが、全部は通りません。 そして、通らなかったからといって、断れる立場でもありません。