2026年7月26日/株式会社東京ネット工務店 海老沢敦
① 事実
数字を三つ並べます。同じ調査から出たものです。
- 企業のAIエージェント(人が逐一指示しなくても、自分で手順を判断して動くAI)の導入は、72%が本番稼働——実際の業務で動いている段階に達した
- そのうち60%は、誰が使ってよくて、何かあったとき誰が責任を負うのかを、正式に決めていない(=ガバナンスを整えていない)
- 一方、専任の「AIエージェント責任者」を置く企業は、2024年の11%から、2026年は56%へ
三つ目が、この号の入口です。2年で5倍。 これは、企業が慌てて統治を作りにいっている速度です。
なぜ慌てているか。導入のほうが先に走ったからです。
Gartnerの予測では、2026年末までに企業向けアプリケーションの<strong>40%</strong>が、業務特化型のAIエージェントを組み込むとされています。2025年は5%未満でした。<strong>1年で8倍。</strong> 現場にAIが入る速度に対して、ルールを作る速度が追いついていない——それが「72%が本番稼働、60%は統治なし」という数字の中身です。
専任の責任者を置ける会社の話ではありません。 従業員数十人の会社に、AIエージェント専任の役職を置く余裕はない。置けないまま、AIは現場に入ってきます。むしろ中小のほうが、社長や現場の一人が勝手に使い始める分、入り方は速い。
つまり、上の数字を裏返すとこうなります。大企業は「導入が先、統治が後追い」で慌てている。中小企業は、後追いする部署すら無い。
出典:
- 企業のAIエージェント導入と統治の空白(Agentic AI Institute) https://agenticaiinstitute.org/agentic-ai-enterprise-adoption-2026-governance-gap/
- 企業アプリの40%予測(Gartner公式プレスリリース) https://www.gartner.com/en/newsroom/press-releases/2025-08-26-gartner-predicts-40-percent-of-enterprise-apps-will-feature-task-specific-ai-agents-by-2026-up-from-less-than-5-percent-in-2025
② 構造 — 誰が作ったか分からないマクロと、同じ道を通っている
この構造には、はっきりした前例があります。経理の誰かが作った、あのExcelです。
どの会社にも一つはあります。何年も前に誰かが作った集計表。関数が何重にも入っていて、中身は誰も分からない。作った本人はもう辞めている。それでも毎月動いていて、その数字を見て判断が下されている。 誰も直せないし、誰も止められない。合っているかどうかを検証する方法も無い。
プログラムは、たまたま分かりやすい例です。
同じものが、どの会社にもいくつもあります。
- 誰も読まない報告書。毎週作られていて、作るのに半日かかる。いつから始まったか誰も知らない
- その部門だけの独自帳票。全社の様式と項目が違う。転記の手間が毎回発生している
- 承認の順番が、構造的に誤っている業務フロー。決裁権のない人が実質決めていて、権限のある人は事後に判を押しているだけ
上から見れば、要らないもの、重複しているもの、順番が逆のものです。それでも回っています。 回っているから、誰も止めない。誰が決めたのか、なぜそうなっているのか、いつからなのか——誰も答えられません。 「昔からそうなっている」で運用が続く。
どうしてそうなるか。現場が困っていて、手元で解決したからです。 悪意はありません。むしろ有能だった。決裁を待たずに動いたから、業務が回った。会社としては助かっていた。
ただし、手元で解決したものは、その部門の中でだけ意味を持つ形になります。部門の中では合理的で、実際に困りごとを解いている。上の階層から見ると、要らない。 悪いのは判断ではなく、判断が届く範囲が部門で切れていることのほうです。
決まっていない領域は、組織が動いている限り、自然に生まれ続けます。 何もしなくても溜まる。誰かが手を抜いたからではなく、現場が困り、現場が解決するたびに、一つずつ増える。AI以前から、ずっとそうでした。 あなたの会社に今ある謎の帳票が、その証拠です。
パソコンが会社に入ったときも、クラウド(自社にサーバーを置かず、他社の用意した仕組みを月払いで借りる形)が広まったときもそうでした。現場が勝手に導入し(それが一番速かった)、後から情報システム部門が把握に走った。新しい道具は、必ず現場から入って、統治は後から追いかける。 歴史循環として例外がありません。ルールを作る話が出るのは、いつも事故が起きた後です。
ここまでは、いつもの型です。今回の道具は、過去のものと違います。
Excelのマクロは、同じことしかしません。 去年と同じボタンを押せば、去年と同じ処理をする。中身が分からなくても、振る舞いは予測できる。
AIエージェントは、状況によって判断が変わります。 同じ指示でも、渡されたデータが違えば別の手順を選ぶ。それが利点です——人が逐一指示しなくてよい、というのはそういう意味ですから。しかし裏返すと、こうなります。作った本人がいても、次に何をするかは分からない。
「作った人が辞めた」より、一段悪い。作った人が目の前にいても、答えられない。
違いは、もう一つあります。速さです。
謎の帳票が一つ生まれるのに、これまでは手間がかかりました。集計表を組むにも、独自の様式を作るにも、それなりの時間がいる。だから溜まる速度もゆっくりでした。年にいくつか。処理しきれなくても、なんとか許容できる範囲だった。
AIが入ると、この手間がほぼ消えます。これまで数日かかったものが、数時間で形になる。現場が困りごとを手元で解決する速度が、桁で上がります。 それ自体は良いことです。困りごとが速く解けるのだから。
しかし、同じことが裏でも起きます。上から見て要らないものが生まれる速度も、同じだけ上がる。
もともと処理しきれていなかった未決の山に、前より速いものが積まれ始めた。
そして、本紙で見てきたものが、ここで全部そろいます。
- Vol.07で見たとおり、間違った作り方をしてもエラーは出ません。 動いてしまう。請求額だけが変わる
- Vol.08で見たとおり、手元に届くまでにAIは二度削られていますが、削られたことは見えません
- そして今号——その全部について、誰が見ているのかが決まっていない
見えないものが増えているのに、見る人を決めていない。 これが2026年の企業に起きていることです。
戦略の階層で読むと、ここで論点がひとつずれます。
「ガバナンス」と聞くと、規程を作る、委員会を置く、専任者を採用する——組織の話に聞こえます。だから中小企業は「うちには無理だ」と思う。実際、専任者は置けません。
しかし、あの60%が欠いているものの正体は、規程でも委員会でもありません。決定の所在です。 誰が決めてよくて、誰が責任を負うのか。それが決まっていない状態を指して、統治が無い、と言っている。
組織の話ではなく、意思決定の所在の話。 そう置き直すと、階層が変わります。
③ 経営者の自分事
置き直した瞬間に、答えが裏返ります。大企業には難しいことが、中小には易しくなる。
専任の責任者を置く——これは中小には無理です。人がいない。予算もない。大企業が2年で11%から56%まで持っていったのは、置ける規模だからです。
誰が最終判断するかを決める——これは、中小のほうが速い。一行で済むからです。しかも、決めるべき人はもう分かっています。あなたです。
Vol.02で、同じ問いでも、大企業と中小では答えが正反対になる、と書きました。同じことがここでも起きています。大企業は、決定の所在を組織で作らなければならない。中小は、もともと一人に集まっている。 統治において、これは弱みではなく、条件です。
その上で、決めるのは一行だけです。
「このAIが出した答えを使って損害が出たとき、誰が謝りに行くのか。」
これが答えられれば、統治は始まっています。答えられなければ、専任者を10人置いても同じです。規程も委員会も無い会社が、この一行だけで大企業の56%と同じ場所に立ちます。
質問を、もう少しだけ具体にします。
- そのAIが出した見積で受注して、原価が合わなかったとき、誰が客先へ行くのか
- そのAIが書いた文面を送って、取引先が怒ったとき、誰が電話を取るのか
- そのAIが処理した数字で申告して、後から違っていたとき、誰の名前で修正するのか
現場が悪いのではありません。 現場は困っていたから使った。あのExcelを作った人と同じで、むしろ有能です。決めていないのは、決める立場の人間のほうです。
——正直に書きます。当社にも、明文化されたルールはありません。暗黙のものは、あります。 ただ、それを担保しているのは制度ではなく、私個人の責任感です。
見方も変わりました。AIが書いたコードを、私が一文字ずつ追うことは、もうしていません。AIに検査させて、「こういう穴はないか」と、AIと一緒に見ています。 全部見ている、とは言えます。ただし、見方はそういう形です。
そして、それでも責任はAIには移りません。 何かあれば、謝りに行くのは私です。一人だから成立しているだけで、人が増えた瞬間に効かなくなる種類のものです。
ひとつだけ、はっきりしていることがあります。AIに責任は取れません。 取れないものに判断を渡している以上、責任は必ずどこかの人間に残ります。決めていない場合、残る場所は自動的に決まります——最後は、社長のところです。 決めていないことは、責任が無くなることを意味しません。決めていないまま、そこにあるだけです。
だから、これは統治の話であって、AIの話ではありません。新しい道具が入るたびに、決めるべきことは同じでした。 誰が使ってよくて、どこまで任せて、外れたとき誰が出ていくか。Excelのときも、パソコンのときも、同じ問いでした。今回だけが特別なのは、道具のほうが自分で判断するようになったことと、溜まる速度が上がったことだけです。
さきほどの一行は、AIにしか使えない問いではありません。
「損害が出たとき、誰が謝りに行くのか」——これを、今ある謎の帳票に問うてみてください。誰も読まない週次報告に。順番が逆になっている承認フローに。答えられないものが、いくつも出てくるはずです。 それらは全部、AIが来る前からそこにありました。ずっと見えていなかっただけです。
AIは、新しい問題を持ち込んだのではありません。もともと決めていなかったことを、速く、たくさん、目の前に積み上げているだけです。 そして積み上がったから、初めて見えた。
新しい道具は、その会社が決めていなかったことを映す鏡になります。 どの会社にAIを入れても、出てくるのはAIの問題ではなく、その会社がずっと先送りしてきたものの形です。
そう考えると、いま統治を問い直す口実として、AIはむしろ都合がいい。「AIをどう使うか」は社内で議論の俎上に載せやすい議題です。そこに乗せて、ついでに古いほうも棚卸しできる。 新しい道具が入るときは、決めていなかったことをまとめて決め直せる、数少ない機会でもあります。
——明日、こう話してみてください。「AIを本番で使ってる会社が7割で、そのうち6割はルールを決めてないらしい。専任の責任者を置く会社が2年で5倍だって。うちは誰も置けないけどさ……あれが何かやらかしたとき、謝りに行くのは誰なんだろうな。というか、今ある帳票も似たようなもんか」
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ライトノベル「ようこそ、東京ネット工務店へ」
https://www.netkomuten.tokyo/channels/novel-tnk-part1/articles/extra-welcome-party
小さなIT企業の現場を書いた小説です。毎号1話ずつご紹介します。
今号の話:〈第一部 Additional「歓迎会の夜 - 黒田さんの別の顔」〉
普段は厳しい先輩の黒田さんが、酒の席に座ります。連載の息抜きに、番外編を一本。
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