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プロローグ:その厚い冊子が、すべての始まりだった

2026年08月03日 一般公開

プロローグ:その厚い冊子が、すべての始ま

りだった

 二〇二五年四月一日、月曜日。晴れ。

 僕、桜井拓也(25)は株式会社東京ネット

工務店の新入社員として初めての出社に向かっ

ていた。JR四谷駅の改札を出ると、四月の

朝の空気が頬を撫でた。外濠公園の方へ歩く。

目の前に桜並木が広がっていた。満開だった。

 桜の花びらが風に乗って舞い散る。朝日を

浴びてキラキラと光っている。外堀通り沿い

の桜並木は淡いピンク色のトンネルのようだっ

た。

 新生活の季節。並木道には真新しいスーツ

姿の新入社員らしき人たちが緊張した面持ち

で歩いていた。僕もその一人だ。カップルが

桜の下で写真を撮っている。犬の散歩をして

いる人もいた。

 昨夜何度も鏡の前で確認したネクタイの結

び目をまた気にしてしまう。黒のリクルート

スーツ、白いシャツ。就活の時と同じ格好だ。

靴も磨いた。完璧なはずなのに、なぜか落ち

着かない。

 桜並木を抜けて外堀通りを市ヶ谷方面へ歩

く。目の前には防衛省の巨大な建物が見えて

きた。防衛省か。

 制服の自衛官が歩いているのかと思ったが、

正門の外にはいなかった。でも、確かに防衛

省だ。その威圧感が静かに漂っている。

 その時頭上で轟音が響いた。見上げると、

大型のヘリコプターが上空を飛んでいく。プ

ロペラの音がビルの間に反響する。すごいな。

 スマホの地図を確認しながら、さらに外堀

通り沿いを歩く。オフィスビルが立ち並ぶ一

角に少し古めのマンションが見えてきた。こ

こ?

 七階建ての住居用マンション。一階には小

さなコンビニが入っている。エントランスの

集合ポストを見ると、三階に「東京ネット工

務店」の文字があった。正確には会社という

より「オフィス」と呼ぶべきだろうか。マン

ションの一室を改装したワークスペースらし

い。

 選考は適性検査とZoomの面接だけだっ

た。こんな小さい会社でも受けさせるのかと

思ったのを覚えている。あんなもの、どこで

受けても同じだろうに。——一度もオフィス

を見に来ていない。内定が出たのが三月末ギ

リギリで、入社まで数日しかなかった。他の

企業の選考はすべて落ちていて、もう後がな

かった。正直見に来る気にもならなかった。

どうせここしか受からなかったのだから。そ

れに、見に来る時間もなかった。

 でも、実際に来てみると——マジかと声が

漏れそうになった。大手SIerの立派な本

社ビルを想像していた僕は正直面食らった。

防衛省の目の前という一等地なのに、マンショ

ンの一室なのか。やっぱりちゃんと見に来る

べきだったな。

 今更後悔しても遅い。

 もう四月一日だ。

 エレベーターもあったが、なぜか階段を選

んだ。少しでも時間を稼ぎたかったのかもし

れない。階段を上る。古い建物特有のきしむ

音が足元から響く。二階、三階。心臓の音が

やけにうるさく聞こえる。

 大学時代、そして大学院時代、僕は起業サー

クルで活動していた。「効率」「成果」「ス

ピード」。この三つを叩き込まれた。情報系

の修士課程を修了してメガベンチャーでバリ

バリやるつもりだった。技術には自信があっ

た。

 でも、就活に失敗した。

 最初はうまくいっていた。始めてすぐ、そ

こそこ名の知れた一社があっさり内定間近ま

で話を進めてくれた。だからたかをくくって

いた。他はろくに受けもしなかった。

 それが最終面接でひっくり返った。役員に

止められたと後で聞いた。はっきりした理由

は教えてもらえない。ただ「協調性」という

一言だけが妙に耳に残った。

 そこからは坂を転げ落ちるみたいだった。

慌てて手当たり次第に受けた。数だけなら誰

にも負けない。惜しいところまでいった会社

もいくつかはあった。それでも、最後の最後

で何かが噛み合わない。理由は会社ごとにバ

ラバラで、どれもこじつければ言い訳にでき

る程度のものばかりだった。結局判で押した

ように「協調性に欠ける」「チームワークが

……」と言われ続け、受かったのはこの小さ

な会社ひとつだけだった。

 面接では「少人数の会社です」と聞いてい

たが、実際にどれくらい小さいのかは分から

なかった。どんな会社なんだろう。

 不安と少しの期待が入り混じっていた。

 三階の踊り場で立ち止まる。深呼吸。外堀

通りの車の音がかすかに聞こえる。手のひら

がじんわりと汗ばんでいた。

 「株式会社東京ネット工務店 301」と

書かれたドアプレート。シンプルで飾り気が

ない。

 ドアノブを握る。冷たい金属の感触。もう

一度深呼吸。

 そしてドアを開けた。

「おはようございます」

 声に元気はなかった。自分でもわかる。

「おはよう、桜井くん。ようこそ」

 温かい声が返ってきた。デスクから立ち上

がったのは代表の海老沢さんだ。Zoomで

見た顔。でも、実際に会うと、印象が全然違

う。短髪、がっしりとした体格。グレーのパー

カーにジーンズ。画面越しでは分からなかっ

たが、想像以上に体格がいい。年齢は……よ

く分からない。四十代後半?五十代?見た目

は若々しいが、目には経験の深みがある。白

髪もなく、しわも少ない。

 こちらへ歩いてくる。それだけのことなの

に、僕の背筋は勝手に伸びた。

 オフィスは想像以上に狭かった。十五畳く

らいだろうか。窓からは外堀通りと防衛省の

建物が見える。朝日が白い壁を照らしている。

デスクが四つ、L字型に配置されている。P

Cのファンの音が静かに響いている。空気に

はかすかにコーヒーの香りが漂っていた。

 そして、目に入ったのは……壁際に並んだ

レトロゲーム機。ファミコン、スーパーファ

ミコン、セガサターン、プレイステーション

……何台もディスプレイに繋がれている。名

前を聞いたことがあるのは半分くらいだ。僕

が生まれるより前の機械も混じっているらし

い。

 そして、オフィスの中央にはこたつ。四月

なのに、こたつ。これはオフィスなのか?そ

れとも、誰かの部屋なのか?

「こちらは白石くんと黒田さん。うちの全メ

ンバーだよ」

 海老沢さんが手を向けた先で、二人が立ち

上がった。白石さんは三十代前半くらい。黒

縁メガネに少しくせっ毛の短髪。グレーのパー

カーにジーンズ。いかにもエンジニアという

格好で、笑顔で手を振ってくれた。

 黒田さんは三十代……いや、もしかしたら

四十代かもしれない。年齢がよく分からない

女性だった。肩くらいの長さの黒髪を一つに

束ねている。紺色のシンプルなブラウスにス

ラックス。寡黙そうな雰囲気で小さく頷いた

だけだった。

 全員で……三人?いや、僕を入れて四人だ。

え……マジで?

「えっと、社員は……」

「これで全員」

 海老沢さんはさらりと言った。本当に四人

だけか。院まで出て、技術も学んで、それな

りに自信もあった。メガベンチャーで働くつ

もりだった。それが四人の会社。正直プライ

ドが傷ついた。

 でも、もう後がない。

「少ないって思った?」

「……正直、驚きました」

 僕は嘘をつくのをやめた。

「就活で回った会社は最低でも五十人くらい

はいたので」

「ははは」

 海老沢さんは笑った。

「少数精鋭でやってる。規模じゃなくて、価

値で勝負してるから」

 その声は意外と低く、力強かった。価値…

…?四人で?僕は改めてオフィスを見回した。

レトロゲーム機が並んでいる。こたつがある。

デスクは自由に配置されている。

「あ、それ気になる?」

 海老沢さんが笑った。

「うちはかなり自由だよ。リモートも自由、

出退勤も自由。仕事中にゲームしてもいい。

こたつで寝てもいい」

「……え?」

 その砕けた口調に少し驚いた。

「ただし」

 海老沢さんはそこで一度口を閉じた。パー

カーの襟元に手をやりながら、僕から目を離

さない。

「成果は出してもらう。それだけ」

 自由?一瞬ホッとした。ゆるい会社じゃん。

これなら楽かも。でも、海老沢さんの目は笑っ

ていなかった。優しいけど、油断できない。

そんな目だった。

 正直不安しかなかった。胃の辺りがじわり

と重い。本当に大丈夫なんだろうか。

「さて」

 海老沢さんがデスクから一冊の冊子を取り

出した。

「これがうちの『TNK-Insiders』。

社外秘の手引き書だ」

 受け取った冊子は思ったより厚い。ざっと

五十ページくらいある。表紙はシンプルな白

地に黒い文字で「TNK-Insiders」

とだけ書いてある。手に取ると、ずっしりと

した重みがあった。紙質は上質で少し古い本

のような匂いがする。うわ、古臭い……。

「TNK-Insiders……」

「うちの仕事の進め方、考え方、すべてがこ

こに書いてある」

 パラパラとページをめくる。活字がぎっし

りと詰まっている。図もあるが、Power

Pointで作ったような洗練されたもので

はなく、手描きのようなシンプルな図だ。

「戦略の階層」「累積戦略と順次戦略」「三

方良しPlus」「AI鏡の原則」……なん

だこれ、抽象的すぎるだろ。大学のサークル

ではもっと具体的なノウハウを学んだ。「こ

のツールを使え」「この指標を追え」「この

施策をやれ」。こんな哲学的な話じゃなかっ

た。

「難しそうだなって顔してるね」

 海老沢さんが見抜いた。

「まあ、最初から全部理解しようとしなくて

いい。これから一年かけて体で覚えていけば

いい」

 一年か——それまで会社、存続してるのか

な。

「今日から白石くんについて実際のプロジェ

クトを経験してもらう」

「……はい」

 返事をしながらTNK-Insiders

の最初のページを見た。

「戦略の階層」

 世界観、原則、大戦略、事業戦略、行動、

戦術、技術……七つの階層が図で示されてい

る。戦略とか大げさだな。四人の会社なのに。

「これ、何の意味があるんですか?」

 思わず棘のある言い方になった。四人の会

社に、戦略の階層。大げさにもほどがある。

海老沢さんは僕の態度を気にするどころか、

面白がるように笑った。

「正直に言っていいよ。今こう思ってるだろ。

『こんな精神論より効率と数字だ』って」

 図星だった。

 パーカー姿のゆるそうな中年。レトロゲー

ム機とこたつ。そのどれもが僕の知る「強い

会社」とは正反対だった。だから、もう失う

ものはない気がして、僕は言い切った。

「……はい。効率、成果、スピード。結果を

出すのはいつもそっちです。世界観とか、累

積戦略とか……正直綺麗事に聞こえます」

 白石さんと黒田さんがちらりと顔を見合わ

せた。白石さんは口の端を上げ、黒田さんは

何も言わずにただ小さく頷いた。何か言いた

げな、でもどこか面白がるような気配。なん

だ、その反応は。

「いいね」

 海老沢さんはむしろ嬉しそうだった。それ

から、僕の手の中の冊子を指で、とん、と叩

いた。

「中身には自信がある。ぜんぶ本当のことだ。

——ただな、こういうものは書いてあるだけ

じゃ何も起きない。読む人間が正しく読まな

いとただの紙だ。そして、たいていの人間は

自分の都合のいいようにしか読まない」

 その口ぶりには自信と、それから、ほんの

少しだけ別の色が混じっていた。

「じゃあ、賭けをしよう」

「……賭け?」

「夏までこの会社で働いてみて。それでも

『綺麗事だ』と思ったら、僕が君をどこでも

好きなメガベンチャーに推薦状を書いて送り

出す。本気で書くよ」

 僕は海老沢さんの顔を見た。冗談を言って

いる目じゃなかった。さっき一瞬見せたあの

「油断できない」目だ。

「……もし、考えが変わったら?」

「その時は何も要らない。君が勝手にここに

残りたくなるだけだ」

 自信というより、確信だった。なんなんだ、

この人。

 その時黒田さんのモニターがふと目に入っ

た。画面の半分でAIが何かのログを猛烈な

速度で書き出している。けれど黒田さんはそ

れを「使っている」というより、まるで同僚

と相談するみたいに短い言葉を投げ返してい

た。

「……違う。世界観に戻って」

 寡黙なその人がAIにだけは静かに話しか

けていた。AIに、世界観?四人の会社。マ

ンションの一室。こたつと古臭い冊子。なの

に、何かが僕の知っているIT企業と決定的

に違う。その違いの正体がまだ何も見えなかっ

た。

 こうして、僕の不本意な新入社員生活が始

まった。

 窓の外では桜の花びらが風に舞っていた。

新しい季節、新しい生活。

 正直に言おう。この時点で僕はこの会社に

何も期待していなかった。四人の小さな会社、

古臭い冊子、抽象的な理論。ただ一つ——

「夏まで」という期限だけが妙に頭の隅に残っ

た。

 一年後、俺はどうなってるんだろう。TN

K-Insidersの冊子を手に僕はそん

なことを考えていた。

 まさかこの厚い冊子が——そして、たった

今交わした賭けが僕の人生を変えることにな

るとは、この時は思ってもいなかった。

5092文字 ・ 約9分

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