第5章 湯気の向こう
次の週の仕事の帰りに、私は荒木町へ行っ
た。
気が向いたら、くらいの軽さだったはずな
のに、気づくと四谷三丁目で降りて、あの路
地のほうへ足が向いていた。父の言葉と、母
が継いだ海老沢さんの名前。その二つが頭の
隅で小さな重しになっていた。——迷ったら
荒木町を歩くといい。べつに迷っているつも
りはなかった。なかったけれど、足のほうが
先にそう決めていた。
歩いているうちに、急に別の時代に入った
みたいだった。
大きな通りから、一本、二本と通りに折れ
る。その通りには、また何本もの路地が枝分
かれしている。暗くはならない。どの路地に
も灯りが点いて、人が出入りしている。提灯。
手書きの品書き。看板すら出ていない店もあ
る。一軒ごとに、間口の幅も、客層も、漏れ
てくる匂いも、まるで揃っていない。隣り合っ
た二軒が、まるで違う国みたいに平気で並ん
でいた。
正直に言えば、最初に思ったのは、ひどい
な、だった。
導線がめちゃくちゃだ。どの店が何の店な
のか、外からほとんどわからない。価格帯も
ばらばら、検索性も回遊性もゼロに近い。O
MOTEが「なんとかする」と言っている非
効率を、ぜんぶ一か所に集めて煮詰めたみた
いな町。——私はまだその目でここを見てい
た。モニター店のあの料理長を、非効率だ、
属人的だと裁いたあのときの目のまま。
寒かった。秋の夜は、路地の奥のほうが冷
える。
路地のいちばん奥。ちいさな間口の引き戸
が半分だけ開いていて、そこから湯気が漏れ
ていた。煮込みの匂い。その奥で、麺の釜が
別の湯気を立てている。カウンターだけの、
七席か八席の、小さな店。
吸い込まれるように、私はその引き戸をく
ぐった。
---
その店にダッシュボードはなかった。
私たちのAIが弾き出す「最適」も、回転
率も、客単価のヒートマップも、この湯気の
向こうには何ひとつ届いていなかった。
ピークだった。
カウンターは満席。あいだに、私はなんと
か隅の一席をもらった。店主は、たぶん六十
くらいの男の人がひとり。いくつもの寸胴鍋
を同時に見ながらさばいていた。ひとつは煮
込み。ひとつは麺の茹で。ひとつは、たぶん
スープ。ガスコンロには手鍋がふたつ。どれ
にも火が入っている。——手は四つあるみた
いに動くのに、顔はちっとも急いでいなかっ
た。
常連らしい老人が暖簾をくぐってきた。
店主は顔も上げずに言った。