序章 迷子
私はいつも誰かに引っ張られて、始まる。
意志が弱いわけじゃない。むしろ強いほう
だと思う。やると決めたら誰よりやる。ただ
——その「やる」の最初のドアだけは、いつ
も自分で開けた記憶がない。気づくと誰かが
先に開けていて、私はもうその中に立ってい
る。
卒業してしばらく。私は何者にもなってい
なかった。
東大経済。独学のコード。AIを使えば私
は何でも作れる——そう信じていたのはほん
の一年前までだ。その自信をいちばん丁寧に
壊してくれたのが皮肉なことに、いちばんい
い場所だった。
四谷の四人しかいない小さな事務所。
学生のあいだ私はそこで三ヶ月だけインター
ンをした。AIを誰より早く仕事の真ん中に
据えた会社。私が「AIでこうすれば効率的
です」と言うたび、そこの人たちは頷かなかっ
た。否定もしなかった。ただ、私の見ていな
い場所を指でさした。顧客の顔。現場の都合。
理屈の外側で動いている人と人との、何か。
私は何でも作れると思っていた。あの三ヶ
月で、それがただの一度も誰にも使われてい
ない「作れる」だったと知った。
知ってしまうとあとが困る。
就活はうまくいかなかった。五社受けて、
五社に断られた。理由はみんな違って、みん
な同じだった——けれど、その話はまだいい。
とにかく私はそのひと月、ふた月を宙ぶら
りんのまま、ひとつもドアを開けられずにい
た。何でも作れたはずの私が何を作りたいの
かわからなくなっていた。いちばんいい場所
を一度見てしまった目には、その辺のドアは
どれも安っぽく見えた。かといって、自分で
いい場所を建てる力はまだなかった。
——けれど、宙ぶらりんは性に合わなかっ
た。何もしていない時間が一日ごとに私をす
り減らした。何かをやっていないとだめだっ
た。たぶん、それがいちばんの弱点だった。
——その隙間に葉山はするりと入ってきた。
葉山透。大学の同級生。在学中から起業し
て、もう社長を名乗っていた。
「神崎。AIだろ。お前うちに来いよ」
葉山に誘われるのはこれが初めてじゃなかっ
た。ずっと前——私があの四谷の事務所にイ
ンターンに行くよりもっと前から、葉山はこ
とあるごとに私を口説いていた。在学中も、
卒業してからも。電話、LINE、気づけば
オフィスビルの下まで来ていたこともある。
同級生のこういう距離の詰め方。赤の他人な
ら切れるのに、同級生だと切れない。
——一度は断った相手だった。在学中、私
は葉山の誘いよりあの四谷の事務所を選んだ。
インターンの口を選んだ。なのに、今は。何
も選べないまま、同じ手がまたこっちに伸び
ていた。
「飲食をAIで変える。個人店をさ大手に潰
させない。——神崎の力がいるんだよ」
ビジョンは立派だった。立派すぎて、私は
半分しか信じられなかった。——葉山は起業
の前に、大手のチェーン飲食に勤めていた。
個人店を救いたいという熱の出どころもたぶ
ん、そこだった。皮肉なことに、その「救い
方」も同じ場所から来ているのだと私が気づ
くのは、もっとあとだ。
それでも断り続けた。理由は自分でもよく
わからない。たぶん、彼の語る「最先端」が
私の知っているいちばんいい場所の手触りと
どこか違ったから。——でも、その違いを言
葉にできるほど、私はまだ賢くなかった。
葉山は最後にいつも同じ手を使った。
「AIは好きに作っていい。お前の好きに」
——好きに、作っていい。
その一言だけは効いた。何でも作れると思っ
ていた頃のあの軽くてまぶしい全能感。それ
をもう一度だけくれると言われている気がし
た。
私はまだ断っていた。断りながら、心のど
こかでもう引っ張られ始めていた。
私はいつも誰かに引っ張られて、始まる。
四谷の事務所もそうだった。あれも自分か
ら叩いたドアじゃなかった。勧められて、流
れで受けただけだ。なのに、人生でいちばん
大事なものを私はあそこで拾った。
だから、と思う。だから、今度も引っ張ら
れるまま行けば、また何かを拾えるのかもし
れない。
——そう思うことにした。その時点で、私
はもう半分、頷いていた。
その春、私は葉山の会社に入ることにした。
自分で決めたつもりだった。
つもりだったというのが——たぶん、この
一年のぜんぶだ。