第25章 覚醒
十一月。外濠公園の木がすっかり色を落と
した頃。
田中くんは変わっていた。
あの一万円の夜からちゃんと勉強するよう
になった。定時で帰らなくなって、本を開い
て、分からないところを白石さんに聞きに行
く。海老沢さんの「DevToolで見ろ」
も今は少しだけ読めるようになってきたらし
い。
でも、理解は遅かった。手は速いのに、頭
が追いつかない。その日も田中くんは旅館サ
イトの予約画面のあるバグにもう三日詰まっ
ていた。
予約の人数を変えても画面の合計金額が更
新されない。状態の持ち方がどこかでねじれ
ている。Angularのどこで何が起きて
いるのか、田中くんは必死でコードを追って
いた。AIに丸投げせず、自分で。それは確
かに進歩だった。
でも三日は長かった。
僕は手を出したくなった。一年前ならたぶ
んもう全部直していた。でもこらえた。白石
さんの背中を思い出して。答えを渡したら、
田中くんの中に何も残らない。
——そこへハルカさんがひょいと覗き込ん
できた。
「それ合計が更新されないやつ?」
「あ、はい……三日溶かしてます」
「ちょっと貸してみて」
僕は内心首をかしげた。ハルカさんはデザ
イナーだ。コードは書けない。本人がいちば
んそう言っていた。「私なんてコード書けな
いし」と。
でも、ハルカさんは夏からずっとあれを触っ
ていた。海老沢さんに渡されたVPOKE。
ハルカさんは自分の画面でVPOKEを開
いた。予約画面を映して、更新されない合計
金額のその数字を指でクリックする。それだ
けでその数字がコードのどこから来ているの
か、どのファイルの、どの部品なのかをツー
ルが勝手に拾い上げた。ハルカさんはコード
を書く代わりに言葉で話しかけた。
「人数を変えたら、合計も一緒に変わってほ
しいの。今は変わらない。なんで?」
拾った場所を手がかりにAIがコードを読
みにいく。しばらくして答えが返ってきた。
状態を持っている場所が二つに分かれていて、
片方しか更新されていない。だから、画面に
出ている数字が古いまま。
「ここか」と、ハルカさんがつぶやいた。
僕は驚いた。ハルカさんはAngular
の仕組みなんてたぶん半分も分かっていない。
でも、「どこが問題か」は掴んでいた。AI
がその一点まで連れていったから。
「で、どう直すの?」と、ハルカさんがまた
聞いた。
VPOKEはこう返した。——この会社の
別のちゃんと動いているプロジェクトではこ
う書いている。同じやり方に揃えればいい。
「他のとこの真似でいいんだ」
ハルカさんはそのお手本の通りに直した。
動いた。人数を変えると、合計がちゃんとつ
いてくる。
それで終わりじゃなかった。ハルカさんは
またVPOKEに言葉で頼んだ。「これ、ちゃ
んと直ったから、ブランチ切って、プルリク
出しといて」。
ブランチっていうのは本番のコードから枝
分かれさせた安全な作業場のことだ。そこで
いくら直しても、お客さんが見ている本物の
サイトにはまだ手が触れない。プルリク——
略してPR——はその枝でやった直しを「本
筋に取り込んでいいですか」と確認に出す、
いわば箱だ。コードを書く現場のいちばん基
本のやりとりだった。