第8章 留まらない、という直感
その頃、会社は大きなお客さんの案件で揺
れていた。
Sというこれまででいちばん大きな相手。
桜井さんがその先頭に立っていた。朝いちば
んに来て、夜いちばん遅くまで残る。マグカッ
プのコーヒーが冷めているのにも気づかない。
誰かが話しかけても、一拍遅れて返事が返っ
てくる。頭のほとんどがその案件の中に行っ
てしまっている。
私はその横顔を少し離れたところから見て
いた。
何かにまるごと持っていかれている人の顔
だ。——ああ、この人はこういう顔をするん
だ、と思った。あの留まらない匂いが、いま、
いちばん濃くしている。
オフィスのその熱のすみっこで、私の季節
の着替えは相変わらず静かに回っていた。誰
も褒めないし、話題にもならない。でも、春
が来れば、十いくつかの小さなお客さんのサ
イトがちゃんと桜の色になる。大きな案件が
みんなの声をさらっていくその裏で、私の小
さな面はただ黙って回っていた。それで、よ
かった。
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私は桜井さんを好きだと思う。それはたぶ
ん変わらない。