
恋はたぶん、大きな音を立てて始まったりはしない。朝いちばんの声をなるべく明るく出す。「みんなで行きましょう」がいちばん柔らかい断り方だということを、たぶん誰も知らない。鈴木ハルカが見ていた、第三部の裏側。
恋はたぶん、大きな音を立てて始まったりはしない。「おはようございまーす」私が言うと、事務所の空気がほんの少しだけまるくなる。気がする。給湯室から戻ると、桜井さんが窓のほうを向いて立っていた。私はこの気持ちにまだ名前をつけていない。
恋はたぶん、大きな音を立てて始まったりはしない。「おはようございまーす」私が言うと、事務所の空気がほんの少しだけまるくなる。気がする。給湯室から戻ると、桜井さんが窓のほうを向いて立っていた。私はこの気持ちにまだ名前をつけていない。
白石さんが見せてくれた一覧には、聞いたことのない小さな会社が20件並んでいた。作ってもらって、そのままになっている。年賀状だけの遠い親戚みたいに。翌朝、私は立ち話にそっと混ざった。「あの古いお客さんたち。季節感を出すのはどうですか」
「ハルカさん、今日飲み行きません?」来た、と思った。「いいですねえ。みんなで行きましょう」この言葉が私のいちばん柔らかい断り方だということを、たぶん誰も知らない。桜井さんがマグカップを両手に笑っている横顔を見て、私の中で何かが一度だけ、静かに疼いた。
柿色の帯を重ねただけの、小さな変更だった。桜井さんはしばらく画面を見て、意外なことを訊いた。「これなんでこの色にしたんですか」前の会社では、誰もそんなことを訊かなかった。私は桜井さんを好きだと思う。でも、この人は私のところにずっとはいてくれない人だ。
東大。理論派。リナさんを見ていると、前の会社で私たちを“手”としか思わなかった人たちの、あの忘れたい感じがうっすら蘇る。でも、横で見ているうちに見立てはずれていった。リナさんは私を、たぶん“読まなくていい人”に分類している。面白いな、と思った。
「リナさん、このあとごはん行きません? 二人で」駅の反対側の定食屋で、ビールが一杯入ったころ、私は訊いてみた。「リナさんって、桜井さんのことどう思ってるんですか」箸が、一瞬止まった。私にも、言えないことが一つある。リナさんにも、たぶんある。
慰労の温泉。夜が更けて、桜井さんがそっと部屋を出ていった。少し前にリナさんが縁側へ出ていったのを、私は見ていた。追わなかった。動かない、というのはこういうことだ。翌朝、味噌汁の湯気の向こうで、私の小さな思いつきが会社の仕組みに化けていく。
春が来たら、桜。BANTO3が勝手に回す。その流れの中で、私は一軒だけ手を止めていた。染めと織りの工房。作業場の壁の反物は、少しくすんで、少しふぞろいで、生きている色だった。「違うの。もっときれいじゃなくていい。というか、きれいにしないで」
会社はSの案件で揺れていた。桜井さんがその先頭にいる。何かにまるごと持っていかれている人の顔だ。私は桜井さんを好きだと思う。それはたぶん変わらない。でも、私は動かない。この人は私のところには留まらない人だから。——外れていたら、それはそれでいい。
春がまた来た。私の十いくつかの小さなお客さんのサイトが、いっせいに季節の色に着替えた。「今年も桜、ありがとうございます」大きな声が一つ、オフィスから消えていた。リナさんはまた少し外を見ている。私はもう根を下ろしてしまった。その全部のまん中に、私の席がある。