
1年、外を回って帰り着いたのは、相変わらず狭いマンションの一室だった。介護の現場で、いちばん速い頭がいちばん通じない。そして、切られた客から1年半ぶりの電話。「御社、Web系でしょ」。リナの帰還と、桜井のSの1年。
1年、外を回って帰り着いたのは、相変わらず狭いマンションの一室だった。昼過ぎに電話が鳴る。海老沢さんが受話器を置いて、部屋のみんなに聞くともなく言った。「火消し行ける人?」私は反射で手を挙げていた。
1年、外を回って帰り着いたのは、相変わらず狭いマンションの一室だった。昼過ぎに電話が鳴る。海老沢さんが受話器を置いて、部屋のみんなに聞くともなく言った。「火消し行ける人?」私は反射で手を挙げていた。
20年続いた介護システムの隙間に、私たちは呼ばれた。顔合わせの席で、既存ベンダーのPMは名刺を一度裏返してから言った。「御社、Web系でしょ」
顔合わせから3日で設計を書き上げた。三つの層、細い管が一本、抜ける前提。30分でAI社員が喋りはじめ、狭いオフィスがその日は少し広く感じた。佐藤くんがぽつりと言った。「これ現場見てからでもよくない?」
情シス部長の柏木さんは、私の設計書を3度めくり直した。よくできてる、と言った。顔は少しも頷いていなかった。それから表紙を指で軽く叩いて聞いた。「これがある日、動かなくなったとき、私は誰の名前を出せばいいんですか」
いちばん重いのは夜だった。二人で40人近くを朝まで見る。センサーのデータをAIに捌かせれば、夜勤を一人減らせる。そのきれいな絵を、私は二代目の理事長に見せた。東さんは悲しそうに笑った。「それやった瞬間に、うち潰れるよ」
データの書き出し口を一つもらう。それだけの話に、既存ベンダーの戸田さんは首を縦に振らない。理由が3度形を変えたあと、営業用の言葉が少し剥がれた。「お宅らがいなくなったら。これ誰が直すんですか」聞いたことのある台詞だった。
M工務店の問い合わせフォームが、朝から止まっていた。「俺の客なんで」と田中くんが画面の底へ潜る。佐藤くんがログを映し、桜井さんは腕を組んで待つ。私には、手を出す隙がなかった。
ハルカさんは工務店のサイトの赤い帯を指でつついて、コードを書かなかった。代わりに、話しかけた。「この赤、もうちょっと渋くして」帯の色がすっと深くなる。1年前、この会社でいちばん速く書けたのは、たぶん私だった。
主任の水島さんが廊下で足を止め、窓際のおじいさんを少し見て、若い職員に言った。「午後、目、離さないでね」バイタルは平熱。センサーにも何も出ていない。何かあるんですか、と聞くと、水島さんは困ったように笑った。「なんか、なの」
現場に連れていった田中くんは、30秒でいなくなった。探すと、職員が話しかけてもほとんど返らない町田さんの隣にしゃがみ込んでいた。「若い頃トラック乗ってたんすか。やば、かっこいいっすね」町田さんが、喋っていた。
呼び出しリストのいちばん下。ずっと見ないふりをしてきた「AIリナ」を、とうとう自分でつついた。頭の回転だけ現在で、口ぶりは1年目。「非効率です」「うるさいな」通りすがりの田中くんが聞いた。「誰と喋ってんすか」「私と」
締め切りの前の晩は、たいてい佐藤くんと二人だった。私は通知の分岐を、例外のそのまた例外まで、うっとりするくらい茂らせていた。佐藤くんがイヤホンを片方だけ外して、画面をちらっと見た。「それ、いる?」
夕方になると、田中くんはたいてい誰かをどこかへ誘っている。「いいですねえ。みんなで行きましょう」ハルカさんはやわらかく受けて、するりと抜けていく。田中くんは息をついて、くるっとこっちを向いた。「……じゃあ、リナさんは」
一晩、夜勤に入れてもらった。若い職員が一人で30人を見る青い廊下。「そばについててもらえますか。話し相手してるだけでいいんで」眠れない町田さんは私を見て言った。「……ああ。来たか」誰かと間違えている、と思った。
数字はどれも目標を超えていた。一次解決率、8割強。その昼過ぎに、佐野さんが運ばれた。夕方、駆けつけた娘さんが、水島さんにぽつりと言った。「私毎日電話してたんです」ガラスのこちら側で、私の頭は反射で答えを組み立てていた。
夜、誰もいなくなった事務室で、私は画面を閉じられずにいた。「まだいたの」湯呑みを二つ持った東さんが立っていた。言うつもりのなかったことが口からこぼれた。「こんなことして。意味あるんですかね」「ないかもね」
やり直しは足し算じゃなかった。AIは電話を「受けない」。数字は8割から4割に落ちた。効率が半分以下になった資料を、私は柏木さんへ持っていった。「前より悪くなってますね」「はい」と私は言った。「わざとです」
「なんでこんな性格にしたんですか」海老沢さんは湯呑みの中を覗いて、道具の仕様を説明するみたいに言った。「議論させるのに性格がないと話にならないんだよ」全部、切る。効率のいちばん尖ったやつ。——動かない一本。
補助金の書類。散らばった数字を集めて様式に流し込む、私たちがいちばん得意なやつだ。半日でほどけた。その夜、海老沢さんが湯呑みを両手に聞いた。「あれなんの金だか分かるか」「見守り機器を入れさせるための、ですよね」「で、なんで国がそこに金を出すと思う」
「リナさん、暇? 一件付き合ってよ」理事長が自分で送迎車のハンドルを握っていた。1軒目、2軒目、全部の名前を知っている。膝が悪いこと。犬が先月死んだこと。「増えないけど。逃げもしない」失礼だと思いながら、私は聞いた。「後悔してますか」
「ご様子に変わりはございません」間違ってはいない。でも何かが足りなくて、その数文字が直せなかった。ハルカさんは一箇所だけ直した。「今日もお変わりなく過ごされていますよ」なんで分かるんですか、と本気で聞いた。「だって。自分が言われたら」
忘れ物を取りに戻った夜の法人、会議室に明かりがついていた。戸田さんが一人、眼鏡を外して目頭を押さえていた。官報のコピーと付箋だらけのファイル。「これを20年ですか」聞いてから、少し失礼だったかと思った。
佐野さんはひと月ほどして施設に戻ってきた。ひと回り小さくなって。あの娘さんが、平日の昼間に車椅子の横に座って、ゼリーをひと口ずつ運んでいる。帰りぎわ、エレベーターの前で一緒になった。「いつも母が。お世話になって」
介護の案件は、ひとまず一段落した。うまくいったとは、たぶん言わない。それでも、朝、建て付けの悪いドアのごとっという音で肩の力が抜ける。「次の、行けそう?」桜井さんがコーヒーを二つ持ってきた。
慰労の一泊。電車の中で、みんなが同じゲームを握っていた。サマライブ。やっていないのは私くらいだった。田中くんの画面には旗を立てただけの空き地が何十個も並んでいる。「効率悪くない?」つい言ってしまった。「出た。リナさんの正論」
「桜井。……Sの田辺さんに電話してやれ」海老沢さんはそれだけ言って、自分の席に戻った。1年半、聞かないようにしていた名前だった。僕の中に最初に湧いたのは心配でも義理でもなくて、もっとみっともないものだった。
田辺さんは老けていた。名刺の肩書きが妙なことになっていた。椅子に座るとまず頭を下げた。「うちの内製がうまくいっていません。というより……もう限界です」その顔に、申し訳なさと同じ場所で、もう一つ別のものが混じっているのに気づいてしまった。
受けるかどうかは、いまここでは決められない。白石さんに教わった。答えを先に出すな。「ただ、一つだけ決めるより先の話があります。いま御社のシステムは燃えてる」そして僕は、まだ会ってもいない男の名前を口にした。「北野さんをいま動かさないでください」
「ぜんぶ見せます」と田辺さんは言った。翌日、情シスから届いた封筒の中身を見て、佐藤くんが一拍おいて言った。「……これじゃないです」本当の鍵を持っているのは、休職中の北野さんと、辞めた二人。その夜、佐藤くんが言った。「一個あるかもしれません。鍵。……うちのやつ」
関係者に順番に話を聞いた。3人目くらいで気づいた。「そういう流れになってしまって」「気づいたらそういう話になっていて」誰も、「私が」と言わない。北野さんの話になると、みんな優しかった。「彼も頑張ってはいたんですよ。ただ……」
白石さんと二人で、Sのコードの履歴を頭から開いた。切りっぱなしのブランチが、辞めた人の名前でいくつも放置されている。その動かないコードの上に、北野さんのコミットが積まれていた。直そうとして、粘って、教えるためのコメントを残して——四つ目で、ぷつんと切れていた。
北野さんは窓際のいちばん奥の席で、冷めたコーヒーを前に置いていた。「うちが切ったところですよね」「はい」「笑いに来たんですか」「いえ」僕はしばらく何も言わなかった。それから、言った。「git全部読みました」
翌朝、海老沢さんに時間をもらった。北野さんのこと、深夜のコミット、戦犯にされようとしていること。海老沢さんは黙って聞いて、湯呑みを置いた。「で、お前はどうしたいんだ」「あの会社を助けたいです」「桜井。——Sだぞ」
社長は60くらいの恰幅のいい人だった。「俺もう内製ってのに懲りてんだよ。おたくにまるっと面倒みてもらう。それがいちばん安心なんだわ」火傷した人の顔だった。「社長。まるごとうちが抱えるのがいちばん危ないんです」
「出向ですか」2度目の北野さんは、メニューの端を指でいじりながら乾いた声で言った。「結局会社の都合でしょう」「半分はそうだと思います」僕は綺麗事を並べなかった。1年半、綺麗な言葉で埋められてきた人だ。
火消しは、あのテストのないバッチから始めた。次の締めまで9日。白石さんがコードを開いて唸った。「一個の関数で締めの計算ぜんぶやってるでしょ。よく頭に入ってるねえ」北野さんが盾を拾いにいく。「一人だと怖いよ。——いまは4人いるから」
血は止まった。でも、それだけだった。「人が要ります」と田辺さんに言うと、人事の宮田さんが履歴書の束を並べてくれた。ITパスポート。Excelエキスパート。みなさんパソコンは得意な方たちです。北野さんが、その束を見て静かになった。
その日のある一人がすごく良かった。大きい会社で新規事業のリーダー。話がうまくて、人柄もいい。会議室がもうこの人で、という空気になりかけた。「夜の11時に締めのバッチがこけたとします。あなたなら、まず何をしますか」
壊れたコードを見せて、聞く。「これ、どう思いますか」。地味な人が来た。印刷会社の事務、独学で2年。しばらく黙って画面を見て、遠慮がちに言った。「月末が31日じゃない月になると、たぶんずれます」黒田さんが、この日初めて口を開いた。
「うちもそれなりの会社ですので」人事の宮田さんが、その一枚を正社員として通すのを渋った。口を開いたのは北野さんだった。「この子がいいんです。自分の失敗を『自分がやりました』って言えるんです。——だから一回賭けさせてください」
「僕、この子が一人で回せるようになったら、抜けようと思ってます」北野さんは静かに言った。リナさんは引き止めなかった。「うん。辞めていいと思う。——ただ、ね。どうせ辞めるなら、私達とこれをちゃんと成功させてから、辞めたらいいと思う」
三上くんが来た。あの家計簿の子だ。3日目、ある処理で2時間詰まっている。北野さんがそわそわして、手を伸ばした。「ちょっと貸して。これ、こうやって——」「北野さん」僕は止めた。代わりに聞いた。「三上くん。——これ、どこで詰まってるか、自分で言える?」
最後に来たのは、僕と同い年の営業あがりの人だった。壊れたコードを見て、あっさり言った。「正直に言っていいですか。これ、俺、パッとは直せないです」これまで来た人はみんな逆だった。帰ったあと、僕は迷っていた。「待ってください」北野さんだった。
帰任の日。1年前、鍵ひとつ出てこなかった会社に、誰が何を持っているかのドキュメントができていた。「来月の締めからそっちで回してください。うち、もう入りませんから」北野さんが少し笑った。「1年前、桜井さんとこ、それ言われて切られたんですよね」
「このまま顧問みたいな形で続けてもらえないか」ありがたい話だった。断った。その夜の居酒屋で、ずっと聞きたかったことを黒田さんに聞いた。「三上くん、正直そんなに飛び抜けてはいかないと思うんです。分かってて選んだんですか」「分かってたよ」
「終わったよ、あれ」桜井さんは近所の店が閉まったくらいの言い方をした。私は知っている。あっさり抜けられたことこそが、あの1年の答えだと。私はずっと、居場所を作れない人間だった。そんな私がこの1年、人の居場所を作る側にいた。