序章 静かに居場所をつくる
恋はたぶん、大きな音を立てて始まったり
はしない。
気づけばその人のそばにいる時間だけ、少
しだけ息がしやすくなっている。ただそれだ
けのことだ。話しやすいというのは思ってい
るよりずっと大きなことなのだと、私はいつ
からか知っていた。言葉が途切れても気まず
くならずにいられること。無理に笑わなくて
もそこにいていいと思えること。胸が高鳴る
よりも先に、そういう静けさのほうが私には
いつまでも残る。
だから私はきっと、恋に落ちるのではなく
て、ある日ふと、もう戻れない場所に立って
いる。そのことに気づくころには、その人の
名前を呼ぶのが少しだけ自然になっている。
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「おはようございまーす」
私が言うと、事務所の空気がほんの少しだ
けまるくなる。気がする。気がするだけかも
しれないけれど、それでいい。朝のいちばん
最初の声はなるべく明るいほうがいいと、私
は思っている。誰かがそれで一日を始めやす
くなるなら、安いものだ。
「あ、ハルカさん、おはようございます。聞
いてくださいよ、俺昨日……」
田中くんが椅子を半分こっちに向けて、も
う喋りはじめている。この人の話はたいてい
落ちがないのだけれど、聞いているとなぜか
元気が出る。そういう才能だと思う。私は
「うんうん」と頷きながら鞄を置いて、パソ
コンを立ち上げる。
佐藤くんはこちらを見もしない。両耳にイ
ヤホンを押し込んで、もう手が動いている。
挨拶は返ってこないけれど、気を悪くしたこ
とは一度もない。この人は言葉を必要な分し
か使わない。使わないぶんだけ、たぶん別の
ところにたくさん置いている。そういう人が
いるのは悪くない。
奥の島では、白石さんがいつもの穏やかな
顔で黒田さんに何か小声で話しかけている。
黒田さんはほとんど口をきかないのに、白石
さんの言うことにだけはちゃんと短く答える。
あの二人のあいだにあるゆっくりした時間が
私は好きだ。デザインの相談で私がそこに混
ざると、黒田さんはたいてい、いちばん本質
的なことをいちばん少ない言葉で言う。びっ
くりするくらい当てる。
今日もいつもの朝だ。桜井さんが何かの資
料をまとめながら、田中くんに短く指示を出
している。佐藤くんはもう画面の中に潜って
いる。そういうなんでもない朝。
そのなんでもない朝の景色に、少し前から
リナさんが加わった。私が入るより前にこの
会社を辞めた人だと聞いている。頭のいい人。
一年、外の世界を回って、それから戻ってき
た。噂には聞いていたけれど、実際に会うの
は、私は初めてだった。
リナさんが帰ってくると決まったとき、桜
井さんの資料の作り方が少しだけ変わった。
前より細かいところまで先回りして書くよう
になった。誰かが戻ってくるというのは、た
ぶんそういうことなのだと思う。迎える側も
いつのまにか少しだけ背筋を伸ばしている。
「リナさん、おはようございます。コーヒー
飲みます?」
私が声をかけると、リナさんは少しだけ間
を置いてから、「あ、いえ、大丈夫です」と
言った。壁を作っているわけではなくて、た
ぶんそういう受け答えのリズムなのだ。私は
それ以上は踏み込まない。人と仲良くするの
は好きだけれど、距離はちゃんといる。近づ
く速さは相手に合わせればいい。急ぐ理由は
どこにもない。
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給湯室で自分のぶんのコーヒーを淹れて戻
ると、桜井さんがマグカップを片手に、窓の
ほうを向いて立っていた。資料の続きを頭の
中で組み立てているのだと思う。ときどきこ
の人はこうやって、一人だけ少し先を見てい
る。
「桜井さん、その顔合わせ、私も何か作った
ほうがいいですか」
「あ、ハルカさん」桜井さんはこちらを向い
て、少し笑った。「うん、たぶん。まだ何も
お願いできてないんですけど、たぶん絵が要
ると思う。制度の話ばっかりだと、たぶん伝
わらないから」
「わかりました。じゃあ、話が固まったら教
えてください」
「助かります」
それだけのなんでもないやりとりだ。けれ
ど、こういう人と話しているときのあの変に
肩に力が入らない感じを、私はいつも少しだ
け味わってしまう。
話しやすいというのは案外大きいことだと
思う。何を言っても変に受け取られない。こ
ちらの言葉を、言ったとおりの重さで受け取っ
てくれる。それだけのことなのに、その相手
の前では自分のことをほんの少しだけ許せる
気がする。
私はこの気持ちにまだ名前をつけていない。
つけないほうがいいことも世の中にはある。
名前をつけてしまうと、それは動きだしてし
まうから。動かしたくないものは名前を持た
ないままにしておく。私はそういうやり方を、
たぶん前の職場で覚えた。
桜井さんはまた窓のほうを向いて、先を見
ている。私は自分の席に戻る。それでいい。
それがいちばん、いい。
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昼を過ぎたころ、海老沢さんが外から帰っ
てきた。この人がどこで何をしているのか、
私はほとんど知らない。ただ、いつもどこか
へ出て行っては、何かを持って帰ってくる。
今日も機嫌は悪くなさそうだった。
「白石くん。あの古いお客さんあるだろう。
ずっとサイトだけ置いてる」海老沢さんが上
着を脱ぎながら言う。「今月も何もできてな
いよな。悪いなあ、あれ。お金はもらってる
のに」
「ああ、ありますね」白石さんが穏やかに答
える。「二十件くらいありますか。もうほと
んど動きのない」
「そうそう。……なんかもうちょっと返せな
いもんかなと思ってさ」海老沢さんは椅子に
座って、天井を見た。「BANTO3のお客
さんとは桁がちがうから。手はかけられない。
……でも、放っておくのもなんだかな」
私は聞くともなしにそれを聞いていた。二
十件のずっとサイトだけを置いている古いお
客さん。何もしない月も多い、低いお金の忘
れられそうなお客さんたち。海老沢さんが
「悪いなあ」と言うときのあの少し困ったよ
うな声。この人は商売の人だけれど、切るこ
とをあまりしない人なのだと思う。前の会社
で見た下請けの社長さんたちにどこか似てい
る。
なにかできることがある気がした。まだ形
にはならない。けれど、ずっとサイトだけを
置いているお客さんに、季節みたいなものを
少しだけ返せたら。そんなことをぼんやりと
思った。思っただけで、口には出さなかった。
まだ思いつきのいちばん柔らかいところだっ
たから。
海老沢さんはそれだけ言うと、もう別の電
話をかけていた。桜井さんがその横で何か短
く相槌を打っている。この人もたぶん、あの
二十件のことを頭のどこかに置いている。落
ち着いて見えて、この人はいつも、少し先の、
うちにしかないものを探している。──探し
ている人はたぶんいつか、探しにどこかへ行っ
てしまう。ふとそんなことが頭をかすめた。
かすめただけで、私はまた画面に戻った。
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夕方になって、みんなが少しずつ帰ってい
く。私はたいてい定時で帰る。残って偉くな
ろうという気持ちがあまりない。机に戻って、
今日触ったものをざっと見返して、明日にき
れいに渡せるようにしておく。それだけの繰
り返し。
その繰り返しの中に、思いのほか私は根を
下ろしてしまっているらしい。
朝、まるくなる空気があって。話しやすい
人がいて。困ったような声で「悪いなあ」と
言う人がいて。二十件の忘れられそうなお客
さんのことをぼんやり考える自分がいる。そ
れだけのことなのに、明日が少しだけ、軽い。
名前のない気持ちはまだ名前のないまま、
私の胸のどこかに、静かに居場所をつくりは
じめている。それに気づかないふりをして、
私はパソコンを閉じる。「お先に失礼しまー
す」と、朝と同じくらい明るい声で言って、
私は外堀通りの天井の低い部屋を出る。
外はもう暗くなりかけていた。