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第40章 帰ってきた場所

2026年08月05日 一般公開

40章 帰ってきた場所

 私が出戻ったオフィスは相変わらず狭かっ

た。

 四人だったのが八人になっても、部屋は同

じマンションの一室のままだ。壁際にスチー

ルラックが一本増え、床にはLANケーブル

が何本も這って、机はいよいよ肘がぶつかる。

誰かが椅子を引くたびに、隣がすっと身を寄

せる。エアコンの古い羽音。どこかのキーボー

ドの速い連打。窓の外には防衛省の低い塀。

その内側は意外なくらい緑が多い。木立の上

にでかいアンテナが一本、空へ突き出してい

る。朝の光が部屋の半分だけを白っぽく照ら

している。

 一年、外の世界を回って——投資家の前で

夢みたいなスライドをめくるスタートアップ

も、閉店セールの札を貼った飲食店も、ひと

通り見て——帰り着いた場所がこの雑居ビル

みたいな会社だというのは、我ながら少し悪

い冗談だと思う。もっと広くて天井の高い場

所なら、いくらでもあった。私はそのどれに

も馴染めなかった。

 それでも、朝このドアを開けるとき、私の

心臓はもう鳴らなくなっていた。出ていく前

は毎朝、ここに立つだけでうっすら身構えて

いた。誰に何を言われるか、どう見られるか、

先回りして体を固くしていた。今は、なんと

もない。建て付けの悪いドアのごとっという

音を聞くだけで、肩の力が少し抜ける。数ヶ

月でそれくらいには馴染んだらしい。

「リナさん、おはようございまーす」

 ハルカさんが朝から全開の声で言う。鈴木

ハルカ。私がいなくなった後に入ったデザイ

ナーだ。声も、笑顔も、出し惜しみというも

のがない。裏も表もない人間が本当にいると

いうことを、私はこの人で初めて知った。何

を考えているのか、読もうとする必要がない。

読むものがそもそもない。まぶしくて、少し

扱いに困る。

「おはようございます」と私は返す。それ以

上はうまく続けられない。天気の話も、週末

の話も、どこをどう転がせば会話になるのか、

いまだに分からない。昔からそうだ。

「リナさーん、今日もクールっすねえ」田中

くんがにやにやしながら首を突っ込んでくる。

「俺思うんすけど、リナさんって笑ったら絶

対かわいい——」

「田中くん。そのバグ昨日中に直すって言っ

てたよね」

「……はい」

 しゅん、と画面に戻る田中くんの横で、ハ

ルカさんが吹き出した。佐藤くんは何も言わ

ない。イヤホンを両耳に押し込んで、もう手

を動かしている。要らない言葉を一つも使わ

ない人だ。挨拶も、相槌も、世間話も、最低

限。無駄がないというより、口をきくこと自

体をどこか億劫がっている。——たぶん、こ

の人とだけは、少しだけ気が合う。

「リナさん。例の通販サイトさんのAI社員。

ゆうべの夜間の問い合わせのログ見ました?」

 桜井さんだった。マグカップを片手に、私

の机の横に立っている。一年目の私の先輩だっ

た人だ。

「見ました」と私は言った。「夜間の問い合

わせ、AIが八割さばいてます。残りの二割、

切り分けがまだ甘い。同じ主訴でも、急ぐの

とそうでないのが混ざってる。エスカレーショ

ンの閾値いじっていいですか」

「どうぞ。……ってか、もう直す気で聞いて

るでしょ」

 昔なら、見透かされたと身構えたところだ。

手の内を先に読まれるのがいちばん嫌だった。

読まれた瞬間、自分の考えが相手のものになっ

てしまう気がして。今は、なんとも思わない。

ただ、分かってもらえていると思うだけだ。

 私の頭はいつも周りより二つ三つ先へ行っ

てしまう。それを鬱陶しがられるか、置いて

いかれるか、たいていどちらかだった。ずっ

とそうだった。先が見えすぎて、みんながま

だ本気で立っている地面が、私にはもううっ

すら崩れて見えている。だから浮く。どこへ

行っても、半歩。——この人だけが同じ速さ

で隣を歩いてくる。急ぐでもなく、待つでも

なく。

「はい」と私は答えた。

 桜井さんは笑った。昔、私が突っかかって

いた頃のあの少し困ったような笑い方だ。で

も、今は困っていない。「次に会う時は、もっ

と対等に話せるように」——一年前、ここを

出ていくとき、この人はそんなことを言った

気がする。言った通りになったとは、口が裂

けても言わないけれど。

 呼び出しリストのいちばん下。`AIリナ

` が、まだいる。私が一年目に書き散らし

たコードから、海老沢さんが起こした私の影

だ。私の口癖も、考え方の癖も、ぜんぶあの

中に畳み込まれている。初めて見たときは鳥

肌が立った。自分の頭の中身が、自分のいな

いところで勝手に喋って、しかも便利がられ

て、使われている。——今は、見ないふりを

している。本物がすぐ上の席に座っているん

だから。

 その電話が鳴ったのは昼を過ぎた頃だった。

 海老沢さんがいつものようにのんびりと出

て——それから少しだけ声のトーンを変えた。

相槌が、二つ、三つ。「ええ」「はい、はい」

「……ああ、それは」。メモも取らずに、た

だ聞いている。長くはなかった。受話器を置

いて、湯呑みを一口すすってから、部屋のみ

んなに聞くともなく言った。

「社会福祉法人さんだ。特養をいくつか持っ

てるそこそこ大きいとこ。……大手さんと組

んで、AIを入れようとして、それがこじれ

て止まってるらしい。火消し行ける人?」

 私は反射で手を挙げていた。

 社会福祉法人。介護。大手ベンダーとのA

I導入の頓挫。——それだけで、頭の中では

もう問題の形がうっすら見え始めている。ど

うせデータがどこかのソフトの中に囲い込ま

れているのだ。記録も、請求も、ぜんぶ。外

へ出す道がない。それに、責任の線もまだ引

けていないはずだ。どこまでをAIがやって、

どこから先は人がやるのか。たぶん大手はそ

こを曖昧にしたまま、現場を一度も見ないま

ま、上澄みだけを綺麗に作った。よくある話

だ。データの通り道さえ引いてやれば、あと

は疎結合できれいにほどける——。

 たぶん、私なら直せる。

 そのときの私は、まだ何も分かっていなかっ

た。

40章 終わり

2386文字 ・ 約4分

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