第59章 もう一枚
朝、早くに法人へ寄ったら、東さんが送迎
車の運転席から手を振ってきた。
「リナさん、暇? 一件付き合ってよ。運転
手が一人熱でさ」
理事長が自分でハンドルを握っていた。断
る理由もなかった。助手席に乗り込むと、車
の中は消毒液と古い座席の匂いがした。
デイサービスの朝の送迎だった。東さんは
狭い路地を危なげなく曲がっていく。どの家
の、どの角も、勝手知ったるという感じだっ
た。カーナビはついていたけれど。一度も見
ていなかった。
一軒目。玄関の前で、東さんは車を降りて。
家の中まで迎えに行った。「山口さん、おは
よう。今日寒いよ。もう一枚着てこ」。おば
あさんのゆっくりした歩幅に合わせて、隣を
歩く。玄関の段差のところで、当たり前みた
いに腕を貸した。急かす様子はまったくなかっ
た。
二軒目。三軒目。全部の名前を東さんは知っ
ていた。名前だけじゃなかった。膝が悪いこ
と。飼っていた犬が先月死んだばかりなこと。
昨日のテレビのどの番組が好きなこと。——
理事長の仕事というより。二十年、同じ町に
いる近所の人みたいだった。
「みんな覚えてるんですね」と私は言った。