第65章 その名前
「桜井。……Sの田辺さんに電話してやれ」
海老沢さんは僕の席の横に立って、そう言っ
た。いつもの少し眠そうな声だ。社員旅行か
ら帰った次の日の朝で、オフィスにはまだ旅
の続きみたいなゆるさが残っていた。田中く
んが誰かに宿の飯がどうだったと身振りをつ
けて話している。ハルカさんがそれを笑って
いる。窓の外の防衛省の低い塀。その奥の緑
と、木立の上のでかいアンテナに朝の光が白
く光っていた。部屋の半分だけが明るかった。
なのに、僕の手は止まった。
Sの田辺さん。その二つの名前が並んで耳
に入った瞬間に、体のどこかが勝手に身構え
た。一年半聞かなかった名前だった。という
より、聞かないようにしていた名前だ。
「……Sですか」
「ああ」
海老沢さんはそれだけ言って、自分の席に
戻っていった。詳しいことは何も言わない。
湯呑みを手に取って、またいつもの、のんび
りした顔に戻っている。
Sというのは、僕が入社して間もない頃か
らずっと担当してきた大きいお客さんだ。う
ちでいちばん古い客というわけじゃない。い
ちばん古いのは、白石さんと黒田さんが二人
で回している創業期からの何軒かだ。でも、
僕にとってはいちばん大きかった。僕の売上
のほとんどはそこで立っていた。屋台骨、だっ
た。