第68章 鍵
「ぜんぶ見せます」と田辺さんは言った。
その「ぜんぶ」にたどり着くまでが、まず
大変だった。
去年、切られたとき、うちのアクセス権は
きれいに剥がされた。当然だ。契約が切れれ
ば、外の人間にシステムの鍵を渡しておく理
由はない。あのとき、海老沢さんは引き継ぎ
の段取りをその場で全部詰めて、うちの持っ
ていたものをきちんと返した。パスワードの
一覧も、設計の書類も、揃えて渡した。畳む
ときこそ雑にやるな。恨みっこなしできれい
に手を離せ。——そういう人だ。おかげで、
去年の僕らは、後ろ足で砂をかけるようなこ
とは何一つしなかった。
だから、今度はその逆をやらないといけな
かった。きれいに剥がした鍵を、もう一度全
部もらい直す。
これが、思っていたよりずっと面倒だった。
僕は佐藤くんを連れていった。お金と、デー
タと、クラウド。いちばんこわいところは、
この一年ずっと佐藤くんの持ち場だ。Sの燃
えているシステムに最初に手を入れるなら、
佐藤くんしかいなかった。「……一応行きま
す」と佐藤くんは言った。相変わらず、乗り
気なんだかそうでないんだか分からない返事
だった。でも、来てくれるときのこの言い方
を、僕はもう知っている。
田辺さんは僕たちを情シスに繋いでくれた。
田辺さんが昔いた部署だ。
「必要なものを言ってください。用意させま
す」
僕は要るものを並べた。クラウドの管理コ
ンソールに入る権限。コードの置いてあるリ
ポジトリのアクセス権。動いているいくつか
のサービスのメンバーに加えてもらうこと。
——三年、この会社のシステムを見てきた僕
には、何がどこにあって、どの鍵が要るかは
だいたい分かっていた。自分たちで作ったも
のだ。
翌日、情シスから封筒が届いた。中の紙は
丁寧に印刷して、ハンコまで押してあった。
仕事は早かった。
見て、佐藤くんが一拍おいてから言った。
「……これじゃないです」
社内ネットワークに外から繋ぐためのVP
Nのアカウント。社内のパソコンにログイン
するためのIDとパスワード。ファイルサー
バーの、共有フォルダの場所。それから、
「資産管理台帳」という名前のExcel。
「これで弊社のシステムに入れますよね?」
情シスの人はそう言った。悪気はまるでな
かった。むしろ、いい仕事をしたという顔を
していた。
「あの」と佐藤くんが、めずらしく自分から
言葉を継いだ。「サーバーどこにあります?」
「サーバー室三階です。カードキーで入れま
す」
「……いや」佐藤くんは少し困っていた。
「そっちじゃなくて。動いてるやつ。クラウ
ドの」
「クラウドというのは……その、VPNで繋
がる社内のですか」
噛み合わなかった。
その人の頭の中には、たぶんきれいな地図
があった。会社の中にサーバーが置いてある。
鍵をもらって中に入れば、そこにシステムが
ある。手で触れる。——昔はそれで正しかっ
た。何十年もそれで正しかったのだ。でも、
この会社のシステムは、もうそこにはなかっ
た。とっくに外のクラウドの上で動いていた。
うちが三年前にそう作り替えたからだ。