第71章 見た
北野さんはなかなか会ってくれなかった。
田辺さんを通して頼んで、断られて、もう
一度頼んだ。休職中の人間を呼び出すのは気
が引けた。放っておいてくれ、と言われたら
それまでだ、とも思った。でも、これだけは
電話やメールじゃ駄目な気がした。顔を見な
いと、始まらない話だった。
gitを読んで、いちばんこたえたのは、
腕でも、深夜のコミットの数でもなかった。
あの、全部が裏で繋がった作りを、たった一
人で、誰にもやり方を教わらないまま、一年、
落とさずに回していた。——その教わる人の
いない一年を過ごした顔を、どうしても見て
おきたかった。
会ってくれたのは会社から少し離れたチェー
ンの喫茶店だった。平日の昼下がり。北野さ
んは先に来ていた。窓際のいちばん奥の席で、
冷めたコーヒーを前に置いて。
思っていたより若くはなかった。僕よりい
くつか上だ。痩せていて、顔色がよくなかっ
た。休職、と聞いていたけど、休んでいると
いう感じはしなかった。ただ、疲れていた。
ずっと張り詰めていたものが急に行き場をな
くしたような、そういう疲れ方だった。糸が
切れても、体だけがまだ張った形を覚えてい
る。そんな疲れ方だ。
「……東京ネット工務店の桜井さん」北野さ
んは僕の名刺を見て、少し笑った。笑い方に
とげがあった。「うちが切ったところですよ
ね」
「はい」
「その切ったところの人がいまさらうちのぐ
ちゃぐちゃを見に来た、と」
身構えているのが分かった。それも当然だっ
た。この人はこの一年半、いろんな人に、い
ろんな顔で責められてきた。僕のこともたぶ
んその新しい一人だと思っている。切られた
腹いせに、失敗を見に来た。ざまあみろ、を
言いに来た。——一年半前の、いや、あの電
話の朝の僕なら、たしかにそれをしに来たか
もしれなかった。だから、この人の身構えを
責める気にはなれなかった。
「笑いに来たんですか」と北野さんは言った。
「いえ」
「あのバッチは」北野さんは僕が何か言う前
に、続けた。早口だった。「あの時点では最
適解でした。仕様も書いてあります。読めば
分かる。言ってくれれば直しました。誰も言っ
てこなかっただけで」