第74章 連れてくる
判が押されたのはそれから五日あとだった。
田辺さんから電話が来た。社長が、やると
言った、と。ただし、まるごとの覚悟じゃな
い。「一年やってみて、駄目ならそこでやめ
る」。そういう条件つきだった。試すような
ゴーサインだった。それでいいと思った。火
傷した人がもう一度火の近くに寄るのに、い
きなり腹をくくれるわけがない。半分の勇気
を五日かけて絞り出してくれた。それだけで
十分だった。
「もう一つ決めてもらったことがあります」
と田辺さんは言った。少し声が明るかった。
「北野の件。配置転換の話は白紙にしました。
……代わりにうちから御社への出向という形
にできないかと」
「出向」
「復帰してうちの籍のまま御社に行く。しば
らくこの会社から離れて、仕事だけする。…
…あの環境からあいつをいっぺん出してやり
たいんです。私の決裁でできます。桜井さん
がいてくれるなら」
田辺さんは全部の判を押せる人だった。そ
の権限をいちばん最初にこういうことに使お
うとしていた。この人が去年、僕に「御社の
ままがよかった」と言って、目を合わせられ
なかったその後ろめたさの使い道だった。人
は後ろめたさをどう使うかでその人が分かる。
田辺さんはそれを北野さんを逃がすことに使っ
た。
「ありがたいです」と僕は言った。「でも、
それは北野さんがうん、と言えばの話ですよ
ね」
「……ええ」田辺さんの声が少し落ちた。
「そこは、私からは言いにくくて。私が言う
と、会社がまたあいつを都合よく動かそうと
してるみたいに聞こえる。……一年半そうい
うことをしてきたので」
分かります、と僕は言った。だから、僕が
話します、と。
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二度目に会った北野さんは一度目より少し
だけ顔色がよかった。喫茶店じゃなくて、今
度は駅前のファミレスだった。窓際の席でコー
ヒーを飲んでいた。呼び出したのはこっちな
のに、また先に来ていた。早く来て、待って
いる。そういう癖の抜けない人らしかった。
「出向ですか」
田辺さんからあらましは聞いていたらしい。
北野さんはメニューの端を指でいじりながら、
乾いた声で言った。
「うまいこと言いますね。配置転換だと飼い
殺しだけど、出向なら聞こえがいい。——結
局会社の都合でしょう。ぐちゃぐちゃにした
本人に後始末をさせたいだけだ」