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第84章 抜ける

2026年08月05日

84章 抜ける

 田辺さんから一度だけ引き止められた。

 正確には引き止めじゃない。「このまま顧

問みたいな形で続けてもらえないか」という

話だった。月に何度か来て、見てくれるだけ

でいい。安心料だと思って。——ありがたい

話だった。うちにとっては楽な継続の仕事だ。

座っているだけで、毎月お金が入る。屋台骨

を切られたあの会社から、また毎月お金が入

る。一年半前の僕が聞いたら、飛びついたか

もしれない。

 断った。

「うちが隣に居続けると、たぶんまたうちに

頼っちゃうんです」と僕は言った。「せっか

く自分たちで立てるようになったのに。ちょっ

とこけそうになると、『桜井さん、桜井さ

ん』ってなる。——それ、卒業した意味がな

いんで」

 田辺さんは少し寂しそうな顔をした。でも、

分かってくれた。

「何か大きなことがあったら、いつでも連絡

ください」と僕は言った。「そのときは飛ん

できます。——でも、たぶん要りません。北

野さんたちでなんとかなります。ならなかっ

たら、そのときまた考えましょう」

 契約はそこで終わりにした。延長も、顧問

も、なし。残ったのは紙の契約じゃなくて、

田辺さんと僕のあいだの開いたままの扉、み

たいなものだけだった。また、何かあれば。

それでいい、と思った。去年、切られたとき

に残ったのが乾いた精算書一枚だったのと比

べたら、ずいぶんちがう終わり方だった。

---

 会社に戻って、その話をしたら、海老沢さ

んは湯呑みを片手に「ふうん」と言った。

「顧問、断ったのか」

「はい」

「毎月勝手に金が入ってくるのに」

「……はい」

 海老沢さんは少し笑った。それから湯呑み

を置いて言った。

「よかったんじゃないの、それで」

 のんびりした声だった。でも、その奥に何

かあるのは分かった。

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