第86章 同じもん作ってんのに
久しぶりに飲まないかと今井から連絡が来
たとき、僕は少しだけ身構えた。大学を出て
からほとんど会っていなかったし、向こうは
誰でも名前を知っている会社に入って、僕は
誰も名前を知らない会社にいる。そういう再
会がどういう空気になるのか、なんとなく想
像がついた気がして、それでも断る理由もな
かったので、金曜の夜に駅の近くの居酒屋で
会うことにした。
店に入ると今井はもう奥の席にいて、僕を
見つけると片手を挙げた。三年ぶりだという
のに顔つきはずいぶん大人びていて、スーツ
の生地も学生の頃には考えられないくらい良
さそうだった。
ビールが来て、最初のうちは互いの近況を
探り合うような当たり障りのない話が続いた。
今井は大手のシステム会社にいた。就活のと
き僕も受けてあっさり落ちた会社だ。いまは
自治体だか金融だかの、とにかく何百人が関
わっている大きな基幹システムの現場にいる
らしかった。
「で、桜井は今どこだっけ」
「東京ネット工務店」
今井は一瞬きょとんとしてそれから気を遣
うように笑った。
「工務店? お前、建設のほうに行ったの?」
「いや、ソフトウェアの会社。名前がややこ
しいんだけど」
「ああ、そうなんだ」
今井はそう言ってそれ以上は踏み込んでこ
なかった。踏み込まないことがたぶん彼なり
の優しさだった。小さな会社で頑張っている
んだなという、そういう温度の相槌だった。
酔いが回ってくると、今井は自分の現場の
愚痴をこぼし始めた。その話には僕の知らな
い言葉がぽんぽん出てきた。上流のアサイン
が薄いとか、ベンダーコントロールがぐだぐ
だで工数が溶けているとか。ひとつひとつを
たぶんこういう意味だろう、と頭のなかで自
分の言葉に置き換えながら聞く。上流という
のは何を作るか決める側のこと。アサインは
誰がどれをやるか。工数が溶けるというのは
想定より人も時間もかかっているという嘆き
らしい。下請けの下請けの、そのまた下請け
から上がってくるコードのことだとか、変更
のたびに積み上がっていく書類の山のことだ
とか、聞いているだけでくらくらするような
話だった。今井はすっかり僕と同じ業界の人
間と喋っているつもりでいる。悪いとは思う
のだけれど、僕のいる場所にはその言葉たち
にぴったり対応するものがどうも見当たらな
いのだった。
「コンサルなんてもっとひどいぞ」と今井は
言った。「上流でぱっと絵を描いて、現場に
置いていくのは新卒みたいな若手でさ。それ
で単価はうちの倍取るんだから笑っちゃうよ
な」
「常駐はするの?」
「するする。若い子を張り付けて資料作らせ
てな。で、最近はそいつらが急に『うちもエ
ンジニアを常駐させます』なんて言い出した。
パランティアってあるだろ、あれの真似でさ。
手を動かせる人間を客に張り付けるんだとか
で社内研修まで始めやがって」
今井はグラスを傾けて少し皮肉っぽく笑っ
た。
「結局人を張り付けて単価を取る商売なのは
変わらないんだよ。看板が新しくなっただけ
でさ」
ひとしきり喋って気が済んだのか、今井は
思い出したように僕のほうを見た。
「桜井のとこはそういうのないの? 何人ぐ
らいでやってんだ」
どう説明したものか、少し迷った。うちで
は当たり前すぎて改めて言葉にする機会がな
かったからだ。
「うーん……たとえば最近だとあるお客さん
のシステムを一本、僕がだいたい一人で見て
て」
「一人で? PMやってるってこと?」
「PMっていうか……お客さんと話して、何
を作るか決めて、設計して、実装して、動か
して、みたいなのをぜんぶ」
今井の箸が止まった。
「……要件定義から実装まで全部お前一人の
頭ん中でやってんの? 基本設計とか、詳細
設計とか、単体は誰が書くんだよ」
基本設計、詳細設計、単体テスト。今井の
頭のなかでは仕事がきれいに層になって分か
れているらしかった。僕のなかではそれは全
部ひとつづきの「作る」で、どこまでが設計
で、どこからが実装なのか、わざわざ線を引
いたことがなかった。
「まあ、そのへんはあんまり分けてないとい
うか。うちだとみんなそんな感じだから」
「分けてない……」今井は少し途方に暮れた
顔をしてそれから仕切り直すように言った。
「いや、そもそもお前んとこ何系なんだよ。
SES? 受託? Web系?」
「うーん、Web系って言われると、それも
ちょっと違う気がするんだけど」
業務系だのWeb系だの、今井の頭のなか
には会社を放り込む棚がいくつも並んでいる
のだろう。そのどれに入れたらいいのか分か
らなくて、彼はしばらく黙り込んでいた。
そしてようやく何かに思い当たったように
言った。
「……あれだ、FDEじゃん」
「エフ……?」
「フォワード・デプロイド・エンジニア。ほ
ら、さっき言った、うちが研修までやってる
パランティアの真似のやつ。あれだよ。作れ
る人間が客のところに入って、考えるのと作
るのを一緒にやる——お前、それを地でやっ
てんじゃん」
「そうなのかな」
名前がついているのか、と思った。僕が毎
日やっていることにちゃんと名前が。海老沢
さんがそんな横文字を口にするところはどう
しても想像できなかったし、そもそもうちは
客先に張り付いたりしない。たぶん名前がつ
いたのは、海老沢さんがずっと前からそれを
やっていたずっと後のことなんだろう。
「でも、それだと大きいのは無理だろ」と今
井が言った。「一人二人でやれる規模なんて
たかが知れてるじゃん」
そこは少し違った。
「規模はわりと普通にやるよ。この前のやつ
もたしか同時に使う人が数万人くらいで」
「……数万人?」
「うん。GCP……グーグルのクラウドに乗
せてるから、そのへんは向こうがだいぶ面倒
を見てくれるというか」
今井の顔からさっきまでの気楽さが少し引
いた。彼は僕の会社を知らないけれど、数万
人が同時に使うシステムというものが普通ど
れだけの人と手間を要求するのかを、痛いほ
ど知っている人だった。
「それ、何人でやってんの」
「僕とあと数人だけど」
今井は笑った。笑ったけれど、目の奥は笑っ
ていなかった。
「うちだったら、それ、何百人のプロジェク
トだぞ」
彼はしばらくグラスの中を見ていて、それ
から半分は冗談みたいに、半分は本当に分か
らないという顔で言った。
「……同じようなもん作ってんのに、なんで
こんなに規模が違うんだろうな」
僕はうまく答えられなかった。
「セキュリティとか、監査とかはどうしてん
の」
「中身はむしろ堅いほうだと思う。基盤がグー
グルだから。ただ」と僕は言葉を選んだ。
「その、形式的な証跡みたいなのはあんまり
やってなくて」
「ああ……」
今井は複雑な顔をした。彼の現場ではその
形式的な何かこそがいちばん人手を食う仕事
なのだ。要らないでしょう、とは僕には言え
なかった。彼のいる場所ではそれは本当に要
るものだったから。
「そんなのよく回るな」と今井は言った。
「客だって無茶を言ってくるだろ。急にあれ
足せ、これ足せって」
「うち、受ける前にお客さんと一緒にリスク
の設計をやるんだよ。何が起きうるかを先に
全部並べて、どこは持てて、どこは持てない
かを決めてから始めるというか」
「へえ」
「それができないお客さんとはやらないんだ」
今井は今日いちばん意外そうな顔をした。
「……客を選べるのかよ」
その声にはさっきまでとは少し違う色が混
じっていた。彼の毎日は営業が取ってきた客
を、どんな客であっても受け止めることでで
きている。選ぶという発想そのものがたぶん
彼の世界には存在しないのだ。
「いいなあ」と今井は言った。「お前は自分
の名前で仕事してるんだな」
それは羨望というには軽すぎて、でも世間
話というには少しだけ重い、そういう言い方
だった。たぶんそこには好きなことをやって
いるぶん実入りのほうは細いんだろうという
気遣いも薄く混じっていた。実際にはたぶん
逆だったけれど、僕はわざわざ言わなかった。
言ったところで何がどうなるわけでもないし、
その数字に、僕はもうたいして意味を感じて
いなかったからだ。僕は僕で、何百人を束ね
て社会の背骨みたいなものを動かしている彼
の仕事を素直にすごいと思っていた。一人が
抜けても止まらないあの大きな機械のことを。
どちらが上とか、そういう話ではないのだと
思う。ただ、遊んでいるゲームが違うだけで。
会計のとき今井は「また飲もうな」と言っ
て、少しだけ足取りを軽くして帰っていった。
彼は明日もあの機械の中に戻っていくのだろ
うし、たぶんそれを不幸だとは一ミリも思っ
ていない。それでいいのだと思う。
翌週、僕はなにかのついでに海老沢さんに
言ってみた。
「うちのやり方、世間だとFDEって呼ぶら
しいですよ」
海老沢さんは「へえ、そう呼ぶのか」とだ
け言って、すぐにまた別の話を始めた。名前
を知らなくても、ずっと前からそれをやって
いる人の顔だった。
第86章 終わり