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第88章 でも、こっちのほうが、好きなんで

2026年08月05日

88章 でも、こっちのほうが、好きなん

 佐藤くんのチャンネルに初めて「仕事」の

匂いがしたのは梅雨の終わりごろだった。

 登録者がいつのまにか二万人を超えていた。

本人はあいかわらず何も言わない。教えてく

れたのは例によって田中くんだ。

「桜井さん、佐藤くんバズってますよ。ほら、

この動画、十万再生」

 見ると、いつもの合成音声のキャラクター

が千円札みたいな値段の安いキーボードと、

その何十倍もする高いキーボードを並べて叩

き比べている。「高いほうが、いいとはかぎ

らないのだ」と舌ったらずな声が妙に説得力

のあることを言っていた。

「佐藤くん、二万人だって」と僕が言うと、

佐藤くんは画面から目も上げずに「……知っ

てます」とだけ言った。むっとしているわけ

ではない。ただ、そういうことを人に騒がれ

るのがたぶん少しだけ気恥ずかしいのだ。

 その二万人が外の誰かの目にとまった。

 ある日、佐藤くんのところにメールが来た。

名の知れたガジェットのメーカーから、今度

出る新しいキーボードを動画で紹介してもら

えないかという話だった。もちろんただでは

ない。それなりの額がちゃんと書いてあった。

「うわ、佐藤くん、案件じゃないですか」田

中くんが横から画面を覗いて自分のことみた

いに沸いた。「もらっときましょうよ。タダ

で好きなことやっててお金までもらえるんで

すよ。最高っすよ」

 佐藤くんは返事をしなかった。メールを開

いたまま、しばらく画面をじっと見ていた。

それから、コーヒーをひとくち飲んで、また

黙り込んだ。

 僕はふと、この前の居酒屋で佐藤くんが言っ

たことを思い出した。収益化はしないのか、

と聞いたときだ。あのとき佐藤くんは「広告

つけると、好きなものだけ触れなくなる気が

して」と言った。あれはこういう日が来るこ

とをたぶんうっすら分かっていた人の言い方

だった。

「その新しいの、佐藤くん、好きなの?」と

僕は聞いてみた。

 佐藤くんは少し間を置いてから、正直に言っ

た。

「……まだ触ってないのでわからないです」

 それが佐藤くんの引っかかりの、たぶんい

ちばん深いところだった。

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