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第90章 作った人は、ここで迷ったのだ

2026年08月12日

90章 作った人は、ここで迷ったのだ

 佐藤くんが基板を注文したという話を聞い

たのは九月の終わりだった。

 例によって教えてくれたのは田中くんだ。

ランチから戻ってくるなり、「桜井さん、佐

藤くんついに作る側っすよ」と自分が作るわ

けでもないのに嬉しそうに言った。

 斜め向かいの席で佐藤くんは聞こえないふ

りをしていたが、その日の夕方には机の上に

薄い箱がひとつ増えていた。海の向こうの基

板屋から届いた緑色の板が五枚。角が鋭くて、

印刷された文字がやたらと小さい。うちで扱っ

ているものと違って、それは佐藤くんが自分

で線を引いたものだった。

「これ佐藤くんが設計したの」

「……見よう見まねですよ」と佐藤くんは言っ

た。「配線は公開されてるのをだいぶ参考に

してるんで、設計ってほどのものじゃないで

す」

 言い方は控えめだったが、机の上にはその

前の一か月ぶんの痕跡があった。キー配列を

方眼紙みたいな画面に並べて、部品の足の位

置を一本ずつ確かめて、それを板の上の線に

落とす。ぜんぶ仕事のあとと休みの日にやっ

ていたらしい。

 組み立てはあっけないほどうまかった。

 次の週の月曜、佐藤くんはもう一枚を組み

終えていた。スイッチの足が五十個ぶん、す

べて同じ高さで、同じ丸さで、きれいに光っ

ている。裏返しても盛りすぎも足りなすぎも

ない。写真に撮って並べたら、そのまま教材

になりそうだった。

「これ手作業でやったの」と、たまたま通り

かかった白石さんがめずらしく足を止めた。

「はい」

「え、白石さん、それ勤務中っすよ」と田中

くんが横から言った。

「終わってるんでしょ」白石さんは佐藤くん

の画面のほうを見もしないで言った。「終わっ

てるならいいんだよ」

 佐藤くんの仕事が遅れているのをこの会社

で見た人間はたぶん一人もいない。だからこ

の手のことは誰も何も言わない。

「うまいねえ」白石さんは心から感心した声

を出した。「手が丁寧な人ってだいたい仕事

も丁寧なんだよ」

 僕はあの旅館の帳場のことを思い出してい

た。売っている台がどれも黒くてつるつるし

ていて浮くから、木を買ってきて柱と同じ色

に塗って、配線を裏から回して隠したあの台。

手が動く人なのだ、佐藤くんは。ずっと前か

ら。

 問題はそこから先だった。

 その週の水曜、佐藤くんの席からコーヒー

の減る速度だけが妙に速くなった。

 組み上がった板をパソコンにつないでも、

キーが半分しか反応しない。正確に言うと、

右側の一列だけがまったく無反応だった。

 佐藤くんの手際はそこでも確かだった。テ

スターを当てて、線がつながっているかを一

本ずつ確かめる。怪しく見えるハンダをつけ

直す。スイッチを外して、部品ごと交換する。

キットを組んだことのある人間なら誰でもや

る手順を、佐藤くんはひとつも飛ばさずにやっ

ていた。それでも直らない。

 佐藤くんはキー配列を書き換えるための、

有志が無料で公開しているファームウェアを

使っていた。設定を書いて、変換して、基板

に書き込む。そこまでは動く。動くのに、右

の一列だけが死んでいる。

「切り分けようとはしてるんですよ」と佐藤

くんはそのとき初めて弱音らしいものを言っ

た。「ハンダは三回見ました。部品も替えま

した。でも、ソフトが悪いのか板が悪いのか、

そこがどうしても割れなくて」

 僕はそれを聞いて、内心あ、と思った。

 佐藤くんは切り分けという言葉を知ってい

る。うちで長いこと機械のことを人にわかる

言葉で説明する側にいたのだから、言葉なら

たぶん僕よりうまく使える。でも、いま佐藤

くんがやっているのは切り分けではなかった。

当てにいっているのだ。ここが怪しい、と思っ

たところを直して、つないで、祈る。外れた

ら次に怪しいところへ行く。キットを組むな

らそれでいい。キットには「ほかの人のとこ

ろでは動いている」という土台があって、疑

う場所は最初から自分の手だけに絞られてい

る。

 この板にその土台はない。線を引いたのも、

設定を書いたのも、ハンダをやったのも、ぜ

んぶ佐藤くんだ。全員が容疑者だった。そし

て、僕の見ているかぎり、佐藤くんは容疑者

を怪しい順ではなく、自分の自信のない順に

調べていた。最初にいちばん長く疑われてい

たのはあの教材になりそうなくらいきれいな

ハンダだ。自分の引いた線と、そのまま信じ

た配線図の注意書きは疑いの輪の外に置いた

まま。

 僕らが毎日やっているのは逆だ。どこかで

何かが動かないとき、どこが怪しいかはいっ

たん忘れる。どこまでが生きていて、どこか

ら死んでいるのかを真ん中で割る。片側を潰

してまた割る。怪しさでも、自信のなさでも

なく、ただ半分ずつ犯人のいる範囲を狭めて

いく。黒田さんに教わって、白石さんに何度

もやらされて、いつのまにか手が勝手にやる

ようになったそれだけのやり方だ。言葉で知っ

ているのと、手が覚えているのは別のことだっ

た。

 教えれば、犯人はたぶん三十分で見つかる。

 僕はその三十分をなかなか差し出せなかっ

た。

 佐藤くんが欲しいのは動く基板なのか。そ

れとも、自分ひとりでそこまで辿り着くこと

なのか。前者なら、いま声をかけるのが親切

だ。後者なら、いま声をかけるのはいちばん

やってはいけないことだった。

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