第92章 先に、分かっただけ
その日は、定時で上がった。
桜井くんが古い履歴を辿っているのは後ろ
から見えていた。田中くんが騒いでいた声も
聞こえていた。誰っすかこれ、と。
私はコーヒーを取りに立って、そのまま戻
らなかった。
外に出ると、思ったより寒かった。十一月
にしては冷える。四谷三丁目からいつもの角
を曲がる。この時間の荒木町はまだ半分眠っ
ている。暖簾を出したばかりの店と、まだ出
していない店が交互に並んでいる。石畳が濡
れているのはどこかの店が水を撒いたからだ。
三軒目の、階段を下りたところの店を開け
た。
「お、早いね」
おやじさんが鍋の蓋を持ったまま言った。
まだ客はいない。私はいつもの端に座った。
「ビール」
「はいよ」
最初のひとくちを飲むまで、私はたいてい
何も喋らない。おやじさんもそれを知ってい
る。煮込みの鍋から湯気が上がっている。豆
腐が隅のほうで、崩れかけたまま浮いていた。
「今日は静かだね」
おやじさんがそう言った。
私はうなずいた。それでその話は終わった。
この街の店はたいていそうだ。何かあったの
か、とは聞かない。聞かないまま、いつもよ
り少しだけ鉢を早く出してくれる。
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私が四谷の事務所に入ったのは、桜井くん
がこの会社を知るよりずっと前だ。
そのころ私は何もできなかった。
前にいた会社を辞めて、しばらく何もして
いなかった。人と喋るのがうまくいかない時
期だった。理由はここには書かない。書くほ
どのことでもない。とにかく、次に働くとこ
ろをなかなか決められないでいた。
海老沢さんに会ったのは、知り合いの知り
合いみたいな伝手だった。
面談らしい面談ではなかった。喫茶店で一
時間くらい喋った。私が喋ったのはそのうち
十分もない。海老沢さんはほとんど自分の話
をしていた。中国から仕入れたものが売れな
かった話だったと思う。倉庫に山が残った、
と笑っていた。
帰りぎわにこう言われた。
「来週から来るか」
できることは何もないです、と私は言った。
「知ってる」
それだけだった。
次の週から、私は毎日、四谷に通った。
最初にもらったのは印刷した紙の束だった。
海老沢さんが自分で書いたものだ。一日ぶん
ずつ順番に並んでいる。読んで、手を動かし
て、分からなければ聞く。夜、海老沢さんは
その日の私の進み具合を見て、次の日ぶんを
書き足していた。自分の仕事が終わってから
それをやっていた。
私はその紙を、まだ持っている。
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同じ紙をもらった人が、ほかにもいた。
一人は私より二年あとに来た子だった。私
より若かった。金はいらないから勉強させて
ほしい、と言って来た口も私と同じだ。海老
沢さんは同じように紙を書いて、同じように
隣に座って、同じように教えていた。順番も、
量も、たぶんほとんど同じだったと思う。