第93章 三十社と、ほしいものが違った
あの人の画面を消してから、しばらく僕は
妙なことを考えていた。
なぜあの人は残れなくて、僕は残れたのか。
あの人のことは書けなかった人だ、で片づ
けられる。じゃあ、僕はなぜ残れたのか。書
けたから、と言うには、僕は書けるだけの人
間をいらないと言った会社を、三十も知って
いる。
三十社に落ちたというのは、僕のいちばん
古い傷のようなものだ。
どこへ行っても、同じことを言われた。協
調性がない。人の話を素直に聞かない。正し
いかどうかより、場の空気を少しは読め。—
—読めなかった。読む気もなかった。おかし
いと思ったことをおかしいと言って、そのた
びに静かに落とされた。三十回、落とされれ
ば、さすがに自分のほうがおかしいのだと思
う。
だから、うちに入れたのは運が良かっただ
けだ、と僕は長いこと思っていた。三十社に
落ちた人間が三十一社目で、たまたま拾われ
た。滑り止めの、そのまた滑り止め。
——一年目の夏に一度だけ、海老沢さんに
言われている。拾ったんじゃない、選んだん
だ、と。見込みのない相手に賭けはしない、
と。
嬉しかった。嬉しかったけれど、腹には落
ちなかった。落ちるわけがない。三十社が首
を振ったものを、この人だけがなぜ、要ると
言えたのか。そこが分からない。分からない
まま、僕はまた運が良かったことにして、し
まい込んでいた。座りのいい説明のほうが抱
えやすかったからだ。
その、分からなかったところを白石さんが
開けた。
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夕方だった。ほかの人はもう帰っていた。
僕がコーヒーを淹れていたら、白石さんが缶
のウーロン茶を持って、隣に来た。
「桜井くん。あの件、まだひきずってるでしょ」
「……まあ、少し」
「そういう顔してる」白石さんは笑った。
「あのさ。桜井くんはなんで自分がうちにい
ると思ってるの」
僕は正直に言った。三十社に落ちて、滑り
止めみたいにたまたま拾われて、居ついた。
そういう入り方だと思っています、と。
白石さんは少し、意外そうな顔をした。
「へえ。そう思ってたんだ」
それから、缶を、ひとくち飲んだ。
「桜井くん、入ってすぐのころ、あの冊子に
食ってかかったの覚えてる?」
覚えている。忘れられるわけがない。うち
の分厚い理念の冊子。あれを僕は綺麗事だ、
と決めつけて、海老沢さんに正面から食って
かかった。入ったばかりの新人が、である。
いま思い出しても、冷や汗が出る。
「あれふつうの会社なら一発アウトなんだよ」
と白石さんは言った。「新人が社長の作った
冊子に綺麗事だって噛みついた。ふつうは、
ああ、こいつは面倒だ、で終わり」
「……ですよね」
「でもね。あの日海老沢さんがなんて言った
か、桜井くん、知らないでしょ」
僕は首を振った。知るわけがない。
白石さんは缶の縁を指でなぞった。それか
ら、あの日の海老沢さんの声を真似るでもな
く、そのまま置くように、言った。