第97章 坂を一本、登っただけだ
四月の終わりに、一筆目の決済が済んだ。
二千四百坪。去年の夏に慎二さんが最初に
石塚先生の事務所を訪ねてから、九か月かかっ
た。そのうち会長の手帳に残っている五か月
で、打ち合わせは十一回あった。ルームを作っ
てからの三か月では、二回だった。決済の日
取りを決めるための三十分と、決済の当日。
決済の夜、大場さんから声の書き込みが来
た。
『済んだ』
それだけだった。BANTO3はルーム文
脈の決定事項に最後の一行を足して、未決の
ところを空にした。未決が空になったルーム
は、見た目がずいぶん静かだった。
---
五月の連休が明けた火曜日の朝、六時十二
分に大場さんから書き込みが来た。夜ではな
かった。
『八郷、やられた。ケーブル』
八郷の発電所は、三月に下げた金額で入札
して、落ちていた。引き渡しが済んだのが四
月の半ば。それから三週間で、フェンスを切
られて、パワーコンディショナまでの銅線を
持っていかれた。
茨城は何年も続けて、太陽光発電所の銅線
の盗難が全国でいちばん多い県だった。二〇
二四年の一年だけで二千四百件を超えていて、
その七割が県西と県南に固まっている。夜の
うちに来て、フェンスを切って、ケーブルを
切って、束ねて積んで帰る。銅が高いうちは、
来る。
僕はメガーヌで八郷へ行った。
発電所は山裾の、ゆるい斜面にあった。パ
ネルが南を向いて何百枚も並んでいて、その
足もとは防草シートで黒い。北の角のフェン
スが、人ひとり通れるくらいの幅で切られて
いた。地面を這っていたケーブルが、二十メー
トルほどの区間でなくなっていて、切り口の
銅だけが朝日で光っていた。
パネルは止まっていた。晴れているのに、
一枚も電気を送っていない。
「一日止まると、いくらになると思います」
大場さんは切られたフェンスの前に立って
いた。答えを待たずに言った。
「晴れた日なら、二十万を超える。四年しか
残ってないのに」
警察は朝のうちに来て帰ったという。被害
届は出した。ただ、こういうのはなかなか捕
まらない、と言われたらしい。
「カメラはあるんです」大場さんは事務所の
ほうから持ってきたノートパソコンを開いた。
「前の会社がつけてたやつが、四台。録画は
二週間ぶん残ってる。……二週間ぶんですよ。
四台で。誰が見るんです、これ」
大場さんはその場で、録画をルームに上げ
た。
BANTO3は映像を上から順に見たりは
しない。まず音を拾う。映像から音声だけを
抜き出して、何がいつ鳴ったかを書き起こす。
エンジンの音、ドアの閉まる音、人の声、金
属を切る音。それから、音が鳴った時刻の前
後の映像だけを並べる。
十分ほどで、返事が来た。
『四台・十四晩ぶんの録画から、夜十時から
朝四時までのあいだに車が発電所のそばで停
まった場面を九つ拾いました。うち一つ(五
月五日 午前二時十四分〜二時五十一分)に、
金属を切る音が続けて入っています。九つの
場面を時刻順に並べます』
九つの短い映像が、画面に並んだ。
どれも暗くて、画質は荒い。ヘッドライト
が近づいてきて、止まって、しばらくしてま
た動き出す。車の形はなんとなく分かるけれ
ど、色まではよく分からない。
「全部、警察に出しましょう」大場さんは言っ
た。「九つ全部」
そのとき、仮の復旧に来ていた軽トラが一
台、砂利を踏んで入ってきた。
慎二さんだった。重機の人を二人連れてい
た。
慎二さんは切られたフェンスを一度見て、
それから大場さんの後ろから画面を覗き込ん
だ。九つの場面を、一つずつ、黙って再生し
た。
「これと、これは、うちのです」慎二さんは
言った。「田植えの前で、夜に水を見に来て
ました。この軽トラは隣の岩瀬さん。毎晩、
十時過ぎに犬の散歩でここを通るので。これ
は新聞の配達。これもです」
慎二さんの指が、九つのうち八つを外して
いった。
「残るのは、これです」