第85章 見晴らし
Sの一年が終わった、と桜井さんから聞い
たのは報告というより、世間話みたいな口ぶ
りでだった。「終わったよ、あれ」。ずいぶ
んあっさりしていた。あんなに深く潜ってい
たのに、まるで近所の店が閉まったくらいの
言い方だった。
でも私は知っている。あっさり抜けられた
ことこそがあの一年の答えなんだと。しがみ
つかれる形で終わる仕事はたいてい失敗して
いる。相手が「困る、行かないで」と縋る関
係は貸しがあるようで、その実、相手を立て
なくした証拠でしかない。誰にも呼び戻され
ずに、静かに要らなくなって、それで終われ
るなら、それはうまくいったということだ。
桜井さんはたぶん、それを自分では上手く言
えないままやってのけた。この人はいつもい
ちばん大事なことを言葉にする前に、体でやっ
てしまう。
私はあの案件で人を採って、育てるところ
を預かった。だから、桜井さんの見ていない
ところもいくつか見ている。
北野さんのことは最初に会ったときから分
かった。焼かれた人の顔を私は知っている。
あの誰にも本当のことを言ってもらえない場
所で、一人だけ真面目に燃えて、灰にされた
人の顔を。あの人は辞めたがっていた。当然
だと思った。私だってあんな場所には一日も
いたくない。だから私は辞めるなとは言わな
かった。「成功させてから辞めろ」と言った。
——引き止めではない。あれはいちばん質の
いい送り出し方だ。逃げるように出ていくの
と、やり切って笑って出ていくのとでは、そ
の後の人生の背筋の伸び方がまるで違う。私
はそれを少しだけ身をもって知っている。だ
から、あんなにまっすぐ言えた。
三上くんと、長谷川さん。あの凸凹は見て
いて可笑しかった。片方は綺麗に書けるのに
何を作るか決められず、片方は何を作るか分
かっているのにコードが粗い。二人でようや
く一人前。世の中の"できる一人"なんてた
いてい幻で、本当はこういう継ぎ接ぎが回し
ているだけなんだと思う。三上くんが長谷川
さんの下で妙に安心した顔をしているのを見
たとき、私は少しだけ羨ましかった。あんな
ふうに迷わず誰かの隣に収まれる人が。自分
の大きさにちょうどの椅子を見つけてそこに
座っていられる人が。
それから、田辺さんと、宮田さん。桜井さ
んはたぶん、あの二人のやったことを半分も
見ていない。
私は採用のところを預かったから見えた。
経歴の薄い一人をあの固い組織が飲み込める
形に言葉を作り替えて、社内に通していく。
宮田さんが何度も頭を下げて回ったか。田辺
さんがどの順で、誰に、話を通したか。桜井
さんが人を見抜くのは速い。でも、見抜いた
一人を大きな組織の中で潰されずに根を張ら
せる。あれは桜井さんにも、私にもできない、
名前もつかない仕事だった。